阪神・淡路大震災、復興のシンボル「ひまわり」は命の象徴の花

 

 

その朝、いつもの起床時間より

なぜか早く目が覚めた。

 

 

目を開くと同時に、部屋の

常夜灯の明かりがふっ…と消えた。

 

 

「あれ?」と思った瞬間

小さなハイツの部屋が

誰かの手でかき回され始めたのだ。

 

 

一階に大型ダンプが

突っ込んだんだろうか?

 

 

そう思った次の瞬間

やっと頭が正常に動き出した。

 

 

違う、揺れてるんだ、

まさか地震?

 

 

1995年1月17日午前5時46分。

阪神・淡路大震災だった。

 

 

当時、大阪市の真ん中に住んでいた

私でさえ、その揺れの大きさには

とてつもない恐怖を感じた。

 

 

冷蔵庫は倒れ、食器棚は

あらぬ方向に向かって扉が開き

中の食器は床に散乱し粉々。

 

 

お気に入りの花瓶も

無残に割れていた。

 

 

テレビの上に設置していた

ビデオデッキが、よくもまあ

寝ていた顔の上に落ちてこなかった

ものだと、後からぞっとしたものだ。

 

 

テレビでは時間を追うごとに

被災の様子が明らかになり

高速道路が横倒しになった映像の

衝撃の大きさは、今も忘れられない。

 

 

「妹は!?

神戸のポートアイランドは

大丈夫だったの?」

 

 

今のようにネットも携帯電話も

普及していない時代。

 

 

もちろん電話がつながるわけもなく

安否も消息も確かめるすべもないまま

テレビとラジオに釘付けになっていた。

 

 

そして、はたと気が付いた。

 

 

「あ、会社に行くのを忘れてた」

 

 

生まれて初めての無断欠勤。

でも、会社から連絡もなかったのは

みんな同じように混乱していたのだ。

 

 

その日のお昼、やっと外に出ると

大阪の街はいつもと変わらない姿で

太陽が昇り、車が行きかい

人々はいつもの生活の中。

 

 

神戸の惨状は、まるで

映画を見ているようだった。

 

 

夜になり、公衆電話から自宅に

電話をかけ、妹の無事を知らされた。

 

 

友だちは、大切な従弟を亡くした。

地元での就職が決まっていた大学4年生。

母子家庭で一生懸命育ててくれた

母親の元へ、もうすぐ帰るはずだった。

 

 

あれから30年。

 

 

取材仕事では、毎年この時期になると

震災に関連する人々に出会うことが

増えていく。

 

 

被災地の真ん中で

自分たちのまちを再建するために

必死になって闘った人。

 

 

防災の大切さを一人でも

多くの人に伝えようと

ずっと活動を続ける人。

 

 

大切な生徒を失った悲しみから

子どもたちの防災教育に

取組み続ける人。

 

 

震災後、ボランティア活動ひとつにも

参加できなかったことに、どこか

小さな苦しさを感じていた私でも

 

 

今、こうして情報の発信に

携わる仕事をしていることで

できることがあったと気づき、

救われる思いがする。

 

 

先日、SNSでつぶやいた震災30年に

「あ、もうそんなに経つんですね」

とコメントをいただいた。

 

 

だれもが知っていて当たり前のように

思っていた震災だったけれど

当事者でなければ、記憶は薄れてゆくのだと

今さらながら実感した。

 

 

世代交代が進むにつれ、

あの日の記憶が風化し

教科書で学ぶ歴史上の

ひとこまにならないように。

 

 

伝え、残し、防災・減災につながる

啓発の一端を担えたら。

 

 

そんな想いを新たにしながら

一人でも多くの人に、メッセージが

届くことを願っています。

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シンガーソングライター&防災士

石田裕之さんの防災啓発活動をご紹介

「兵庫のすごい人が集結!すごいすと」

 

 

今年、石田さんは神戸市内の中学校で

生徒たちと一緒に

震災を知らない人たちへ向けた

合唱曲をつくられました。

ここからどんどん、全国で

歌い継がれていくことを願います。

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