中出三也 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

いやいや…。新型コロナがまた流行してくれているおかげで、
同僚の休みのフォローやら、感染対策強化やらで仕事もこうバタバタと慌ただしいと
ゆったりと趣味にも向き合うのが難しくなってしまいます。
ましてや、モヤモヤすることの多い方々が続かざるを得ない昨今、気持ちのゆとりがないと、何かをまとめようという気持ちもなかなかうまく機能してくれず、
何とかようやく落ち着いてきたので、ボチボチまた動き出そうかな…と。…にしても、結構更新さぼってしまいましたね。
…今回はコチラの方を。


中出 三也  なかで さんや
1897(明治30)年 月 日
東京 生

京華商業学校を卒業後、本郷洋画研究所に入り岡田三郎助に師事
1915(大正4)年 日本美術院第二回展より洋畫部に出展
1918(大正7)年 日本美術院の試作展覧會で奨励賞を受賞し、日本美術院院友となる
1922(大正11)年 小林徳三郎、萬鐡五郎、埴原久和代、前田寛治、林武らと圓鳥會を創立
1926(大正15)年 本郷美術展(昭和5年から春臺展と改称)が開催されるようになると毎年出展を続ける
1928(昭和3)年 第9回帝展で初入選し、昭和6年の第12回展まで連続入選となる
1932(昭和7)年 中外商業新報連載の松本泰『都會の唄』の挿絵を担当する
1933(昭和8)年 牧野虎雄が主宰設立した旺玄社の同人となる
1935(昭和10)年 第二部會展に『自轉車練習』を出展し、この作品は翌年の第11回オリンピック伯林大會の藝術競技部門にも選出される
1936(昭和11)年 「人民文庫」に掲載された圓地文子『散文恋愛』や湯淺克衛『莨』などの挿絵を手掛ける
以降も春臺展や旺玄社展などで活躍を続けるが、戦後の昭和21年末に三重県松阪市に転居するとそのまま東京に戻ることなく絵画教室なども行っていた

1971(昭和46)年 月 日没 74歳?

中外商業新報の連載小説で名前は早くからリストにのっておりましたが、何と言っても肖像写真が見つからない。
今回アップしたモノにしても、どうにかこうにか讀賣新聞の昭和7年に当時夫婦であった同じ岡田三郎助門下の甲斐仁代と二人で移っていた写真が掲載されているのを見つけたので、
例によって「無いよりはまし」かなと、トリミングして使用させていただいておりますが、はてさて、この画質では…「無いよりはまし」なのか…。
肖像写真かも言われてみないとよくわからない。…あぁ、何ともモヤモヤする。
それと、「なかでさんや」と名前の読み方も表記してみましたが、一部資料では「なかいで」とルビがふられているモノもあったりで、実際のところ、どちらが正解なのでしょうか…。
見つけられた資料で数の多い「なかで」としてみましたが…。あぁ、モヤモヤが止まらない。
生年、没年も資料にあったのですが、さて月日まではみつけられておりません。
上記略年譜にもあるように、こんなに官展に入選していたりしている方でも、
戦後地方に逼塞してしまわれると、中央では見向きもされなくなってしまう…といったところなのでしょうか。
戦前資料ではいくつも甲斐仁代との関係で取り沙汰されていたり、
略年譜では省略せざるをえませんでしたが、大正12年の関東大震災前には1920年協会といった絵画グループを結成していたり、
圓鳥會結成前にはちょこっと二科展にも出展していたり、そこそこ目にとまる活躍はされているんですけどねェ…。
三重県あたりにはもう少し戦後の様子などの資料がどこかにあるのでしょうか…。