伊集院静さんの「不運と思うな。」を読みました。

 

伊集院さんは、弟さんを若くして亡くされているのですが、そのとき、恩師の方に言われた言葉を本の中で紹介していました(以下、緑字はすべて、この作品からの引用です)。

 

「君と同じ立場の人が世の中には何人もいて、その哀しみを乗り越えて生きてることを忘れないで欲しいんだ。途方に暮れたり、哀しみに甘えてはいけない。憤ってはいけない」

 

そして、弟さんの死を、

 

「不運だと思ってはいけない。不運な人生などどこにもないんだ」

そう語られたそうです。

 

その時は深く納得されなかったようなのですが、徐々に伊集院さんは考えが変わっていったそうです。

 

彼等を、ただ不運だ、と考えては、彼等の生きた時間と姿勢に対して失礼だと思いはじめた。

 

人は泣いてばかりで生きられない。

泣いて、笑って、正確には、笑って泣いて笑う、が人の生きる姿である。

 

ーー不運と思うな。

口にこそ出さぬが、私は自分より若い人が、辛い、苦しい、哀しい目に遭っているのを見ると胸の底でつぶやく。

 

ーー決して不運と思うなよ。もっと辛い人は世の中にゴマンといる。今、その苦しい時間が必ず君を成長させる。世間、社会、他人を見る目が広く深くなるのだ、と。

 

病気がわかってからしばらくの間、自分はアンラッキーだな、と思っていました。

 

自分の思い描いていた将来図には、30代で病気になることは想定していなかったから、予定が狂ったことを「アンラッキー」と捉えたのだと思います。人生はコントロールできるはずなのにと腹を立てたわけで、本当に傲慢な考えですね。

 

病気になったからこそ得られるものもありました。

 

世界の見え方が変わったことです。

 

経済力、ワークライフバランス、子どもの教育、老後資金、家事分担、仕事のやりがい。

 

これまでものすごく大切だと信じてきたことって、長い人生の中では、そのこと自体には意味がないのではないかと。

何かに真剣に取り組み、向き合っていく姿勢に意味はあっても、その中身・対象そのものには、大きな意味はないのかもしれない。

 

自分と向き合って、誠実に生きていくことに意味があること。絶対的な正解なんてないこと。どんな人にも寿命はあること。その寿命は人によって違うこと。死は等しくやってくること。

 

これからの人生を、病気になったからこその眼差しでみつめていけることは、悪くないことだと思いはじめています。

 

美しいものとむごいものが隣り合わせているのが私たちの生命としたら、決して不運などとは考えずに今日から美しいものを信じて、自分の足で歩き続けよう。

 

病気になったからこそ、この本で書かれていることに深く揺さぶられたのだと思います。