『軍師官兵衛』第6回「信長の賭け」感想 | のぼこの庵

のぼこの庵

大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回も「ライト大河」「ジュニア大河」路線。

何人かのキャラ設定を、さらさらっと説明してくれました。
いくつかのエピソードを、さくさくっとなぞってくれました。

わかりやすいっちゃわかりやすい。

でもね。

敦盛までもが軽いんですよ!
側室がどうとか青いんですよ!

もうちょっと視聴者に考えさせてほしい。

そう思います。

※朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。天文2年(1533年)、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。天文17年(1548年)、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。天文21年(1552年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。永禄2年(1559年)には、従四位下に叙位された。永禄6年(1563年)、若狭の粟屋勝久を攻めた。永禄7年(1564年)、加賀に出兵。大聖寺まで進出した。永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺された。松永久秀に矢島御所から追われ、若狭武田家を頼っていた義輝の弟・足利義昭(義秋)が越前敦賀に動座したため、義景はその来訪を歓迎した。義秋は朝倉家の後援を期待して朝倉・加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。しかし両者の長年の対立は深刻ですぐに和睦できるものではなかった。永禄10年(1567年)、義秋を一乗谷の安養寺に迎え、義秋の仲介により加賀一向一揆との和解も成立している。永禄11年(1568年)、義秋が義昭と改め、朝倉館で元服した。その後も義昭は朝倉館を訪問して義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深めて上洛戦を求めた。だが義景は義昭が望む上洛戦には冷淡であったため、義昭は美濃を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って動座しようとした。義景は止めようとしたが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して越前から去ってしまった。若狭も支配下に置いた義景は、次第に遊興に耽るようになったと言われている。織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。上洛した信長は義昭を将軍とし、さらに義景に対して義昭の命令として2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。このため永禄13年(1570年)、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなる。だが浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川の戦いは敗戦に終わり浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとされる。しかしその後、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して織田領の近江坂本に侵攻する。さらに大津で焼き働きし醍醐・山科に進駐した。しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが無視された。また、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景は無視した。さらに信長は朝廷工作を行なったため、信長と義景は勅命講和することになる。元亀2年(1571年)、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き討ちした。元亀3年(1572年)、信長は小谷城を包囲し、砦を整備しはじめた。義景は支援に赴いた。しかし義景は攻勢には出ず、織田軍から散発的な攻撃を受けると、前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返ってしまった。砦が完成したあと、信長は再び日時を決めての決戦を申し入れてきたが、義景はまた無視した。信長は砦に羽柴秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。甲斐の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍は次々と城を奪われた。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている。信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる。元亀4年(1573年)、義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが、義景は動かなかった。武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった。天正元年(1573年)、信長は3万を号する大軍を率いて近江に侵攻する。これに対して義景も2万の軍勢を率いて出陣した。信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の大嶽砦を攻める。朝倉軍は大敗して砦から追われてしまう。丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になってしまった。このため、義景は越前への撤兵を決断するが、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受ける。この田部山の戦いで朝倉軍は大敗し、柳瀬に逃走した。信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。義景自身は命からがら疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死してしまった。義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れ平泉寺の僧兵に援軍を要請する。しかし信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じるどころか、東雲寺を逆に襲う始末であった。一方、信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火した。この猛火は三日三晩続き、これにより朝倉家100年の栄華は灰燼と帰したのである。従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃する。ここに至って義景は遂に自害を遂げた。享年41。死後、高徳院や小少将、愛王丸ら義景の血族の多くも信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、かくして戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝された。その後、浅井久政・長政共々髑髏に箔濃(はくだみ)を施され、信長が家臣に披露した。(Wikipediaより)