醍醐寺のすべてを歩く その3 上醍醐 ─ 平成26年11月21日 ─ | タクヤNote

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醍醐寺のすべてを歩く その2 下醍醐 ─ 平成26年11月21日 ─からつづきです。

 

醍醐山のふもとの下醍醐を参拝し終えて、いよいよ上醍醐の仏堂が建ち並ぶ醍醐山に登ることとなりました。上醍醐は下醍醐の東にそびえる醍醐山の山のてっぺんにあり、醍醐寺の開基である弘法大師空海の孫弟子である理源大師 聖宝が修験道の道場として開いた、醍醐山の始まりの場所であります。

 

 

 

 

 

 

 

 


醍醐寺の伽藍を紹介する鳥瞰図が、醍醐寺境内やパンフレットなどに載っていますが、それを見ると下醍醐と上醍醐はすぐ近くのように描かれているのですが…。

 

 

 

 

 

 

 

 


しかし、実際の上醍醐は、標高450mの醍醐山の山頂にあり、下醍醐から2km以上もの急峻な山道を登らなければならないのです。この上醍醐は霊場としても難所として有名で、この日一番の楽しみであり、かつ一番大変な目標と案じていました。

 

 

 

 

 


この登山道は下醍醐から1時間かかるという話で、小生が登り始めたのは午後3時ちょっと前のこと。しかも、午後5時までに下山するルールとなっており、正直「ちょっとキツいかも」とこの時は思いました。
しかし、今回の醍醐寺参拝は、醍醐寺のすべてをこのブログで紹介するという目的があり、醍醐寺でも重要な場所である上醍醐を外すことは出来ません。そう思いまして、意を決して上醍醐を目指すことにしたのです。

下醍醐から上醍醐を目指すには、下醍醐東端の大伝法院エリアからさらに東へ、ここに下醍醐境内から外に出る回転扉が設けられいます。そこから下醍醐境内から一旦外に出て少し歩くと、そのすぐ先に現れるのが塔頭の成身院です。

 

 

 

 

 

 

 

 


ここは『女人堂』の名で知られてまして、つまり修験道の山である上醍醐の女人結界であったのです。女人禁制の時代には、女性参拝者はここで拝礼をして引き返したのです。
現在ではもちろん女性も山に入ることが出来ますが、しかし近年になって上醍醐には入山料が必要になりました。前の下醍醐の紹介記事でも少し書きましたが、上醍醐の准胝堂が平成20(2008)に火災で焼失をしたため、現在その再興事業中なのです。その再興の費用を募るために、再興されるまで入山料を徴収するようになったのです。成身院はその受付として今は使われています。

 

 

 

 

 


受付の人に「1時間くらいの登山道ですよね」と尋ねたところ「いや~、1時間以上はかかるでしょう」と、聞いてゾッとする返事が…。行き先の恐ろしさが伝わって来ました。

こうして上醍醐への、ハードな参拝の道を登ることとなりました。今回は新しい重いカメラと交換レンズを持っての登山となるということで、カメラを持って頑張れるかの、訓練の意味合いも持つ参拝登山となったような気がします。

登山道に入ると、下醍醐では色鮮やかな紅葉を見せていた広葉樹は少なくなり、うっそうとした杉の木が茂る山道となっていました。途中には○丁と、上醍醐までの残りの距離を示す石標が。おおよそ100m間隔で立てられているそうです。

 

 

 

 

 

 


こうして、厳しい上醍醐参拝への道を登ったのですが、どうもバテがひどいと感じたのです。このような山岳寺院の参拝は今までもよくしたものでしたが、年齢を重ねている上に最近かなり体重が増えておりまして、思わぬところで体力の衰えを知ることに。10~15分歩いただけで息が切れるありさま。9丁のポイントにあるのが『不動の滝』。ここは醍醐山の登山道の半分にあたるのですが、小生はここで完全に息が上がっていました。

 

 

 

 

 


ゆっくり休憩を取りたいところではありましたが、登山のタイムリミットである5時までの下山と、秋の日の短さが気になって、どうしても先を焦ってしまいます。落ちていた木の枝を杖にして歯を食いしばって山頂に向かうのですが、息が整わない内にまた急いで山を登ると、思ったよりもペースが落ちてしまい足取りも重くなります。

途中には小さいながらも、立派な祠を持つお社が。『音羽大王大権現』と表示がありまして、醍醐山の北の音羽山の氏神ではないかと思われます。このあたりでは、ちょっとした目印があると、一回ずつヘバるように座り込んでしまうということに。

 

 

 

 

 


それでも、歯を食いしばってさらに頂上を目指し、そして16丁にあたる上醍醐境内の看板の前に到着したのです。ここで急峻な登り坂は終わりです。

 

 

 

 

 


しかし、ここで時計を見てビックリ。なんと下山リミットの5時にもうなってしまっていたのです。1時間以上どころか、なんと倍の2時間も経ってしまい、正直ショックでありました。
さらに、ここで信じられないことが起きたのです。両足の内ももに突然激しいけいれんが襲ったのです。両足がガクガクと激しく震え出し、山道を歩くどころか、立つことも出来ないような状態になってしまったのです。
山の中で時間はもう5時。これまで登って来た険しい山道を思い返して、立つことも出来ない自分の体の状態に「これはもしかして、生死に関わるような一大事では」と、得も言われぬ不安にとらわれることに。
とにかく、歩ける状態にしなくてはならないと、しゃがみこみながら必死に震える足をさすり、足の状態を治すべく念じるような思いで時間の経過を待ちました。

そうして、少しずつ立てるようになったのを見計らって、そんな満身創痍の状態での上醍醐参拝となりました。
険しい山の上なんで参拝者も決して多くはないのですが、しかしそんなひっそりとしているのが逆にもったいないくらいの、国宝・重要文化財建築が建ち並ぶ、見ごたえある場所です。

 

 

 

 

 

 

 

 


上醍醐入山チケットより、上醍醐境内図 (文字は新たに直しました)

 


上醍醐の伽藍を見る参道は上醍醐境内の看板からさらに西へ、19丁のあたりにあるのが上醍醐の寺務所。三宝院の裏にある醍醐寺の寺務所とは別の上醍醐の寺務所が山上にはあり、寺務関係者が常駐されています。

 

 

 

 

 

 


そして、その横を通る参道を歩くと、高台にやっと上醍醐最初の伽藍に到着します。まず目の前に見えるのは『醍醐水』という、湧水を祀る祠です。

 

 

 

 

 


『醍醐寺縁起』[江戸時代(写本)・国宝]には、この醍醐水にまつわる醍醐寺開基の説話が書かれています。

 

 

 

 

 


醍醐寺縁起[江戸時代・国宝]  醍醐寺のすべて展図録より

 


聖宝は、笠取の山頂に五色の雲がたなびいているのを見た。登ってみるとまるで故郷に帰ったような気分になり、ここに精舎を建てようと思案した。すると、谷間に一人の翁が湧き出る水を口にして「醍醐味なり」と賞賛している。「私は、ここに精舎を建て仏法を広めたい」と云うと、翁は、「ここは古くから諸仏諸菩薩天善神の雲集の地であり、私はこの山の地主、横尾明神だが、この地をあなたに献じ、わたしは永く守護しよう」と・・・・・・・・・
そのまま翁は見えなくなった。
※醍醐寺のすべて展図録より引用

涅槃経の経典の中に、最後で最高の「醍醐味」の乳飲料として醍醐のことが書かれており、最上の教えのたとえとして説かれています。開基の聖宝は醍醐の水が湧く地を宿坊として准胝・如意輪の両観音を奉安し、修験道場としました。この醍醐の水のエピソードから、笠取山は醍醐山と呼ばれるようになり、そして醍醐寺となったと伝えられます。

その醍醐の水の祠の西側にあるのが清瀧宮です。清瀧宮権現は下醍醐にも拝殿と本殿が祀られていましたが、本家は上醍醐のこちら。醍醐寺開基の聖宝が西暦900年頃に醍醐山に降臨した清滝権現を、醍醐山に祀ったのが最初と伝えられます。寛治2(1088)年に醍醐寺14世勝覚によって上醍醐に社殿が建てられ、9年後の
永長2(1097)年に分社されて、下醍醐に清滝宮が祀られるようになったのです

醍醐水の近くにある拝殿は、室町時代の寝殿造りで崖に掛かっているために、清水寺本殿や東大寺二月堂と同じ懸造りとなっており、国宝となっています。

 

 

 

 

 


一方の、拝殿の後ろの小高い山の上に建つ本殿は、昭和32年に再建された新しいものです。

 

 

 

 

 


ここに祀られる清瀧権現とは弘法大師空海が宮中で雨乞いをした時に出現したインドの龍王の一尊、善女竜王のことで、唐に渡っていた空海が、長安の青龍寺の守護神であった清瀧権現を勧請し、高雄山麓に祀りました。
そして、醍醐寺開基の聖宝が真言密教の守護として、醍醐山に祀るようになったのです。

 

 

 

 

 

 


善女龍王像[鎌倉時代・重文] 醍醐寺三宝院流 深賢筆  醍醐寺のすべて展図録より

善女竜王は童女として現わされる場合と、中国官服を着た男性の姿で現される場合がある。鎌倉時代に三宝院流を大成させた遍智院 深賢が絵仏師定智の絵を模写したもので、原本は高野山・金剛峰寺の国宝画である。

 

 


そして、醍醐水の裏山へ。ここがかつて准胝堂(じゅんていどう)が建っていました。西国三十三霊場の11番札所として多くの巡礼地として信仰を集めていたのですが、平成20(2008)年8月、落雷による火災で焼失してしまったのです。
江戸時代に彫られた本尊・准胝観音菩薩像も准胝堂と運命を共にされたそうですが、一回り小さい分身像が海外の展覧会に出陳されていて難を逃れたそうです。

 

 

 

 

 

 


左 焼失前の准胝堂 画像参照:http://ja.wikinews.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E9%86%8D%E9%86%90%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%87%86%E8%83%9D%E5%A0%82%E3%81%8C%E5%85%A8%E7%84%BC%E3%80%81%E8%90%BD%E9%9B%B7%E3%81%8C%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%8B

 

 

右 准胝観音菩薩像(分身像) 画像参照:https://www.daigoji.or.jp/special_news/news_140321.html
 
 

 

 

上醍醐への登山が有料になったのも、この准胝堂の復興のためで、准胝堂が再興されれば、入山料徴収は止めるとの話です。
醍醐水の裏山に建っていた准胝堂の跡にも足を運んでみましたが、そこにはロープで張られた荒れ地が広がっているだけでした。現在復興作業中と醍醐寺側の説明でしたが、現地を見たところお堂が焼失してから6年、跡地には復興の雰囲気を見ることは出来ませんでした。

 

 

 


准胝観音像は現在下醍醐に降ろされて、大伝法院の大講堂に移されています。それに合わせて大講堂は『観音堂』と名称が改められ、西国三十三観音霊場の札所として納経・御朱印を受け付けています。
由緒ある観音霊場のお寺が焼失したことは残念なことではありますが、正直に言えば急峻な登山道を登らなくてはならない上醍醐の准胝堂は、巡礼者にとって楽に参拝出来る場所とは言えず、下醍醐に遷されて喜んでいる巡礼者も結構いるのではと想像してしまいます。
それを思うと准胝観音は、ずっと下醍醐におられることになるのではなんて想像もしてしまうところです。

さて、上醍醐の起こりの場所である醍醐水近辺を一通り見て回った後は、山頂へ続く東の参道へ向かいます。上醍醐のほぼ中央に位置する台地の上に建っているのが薬師堂です。
薬師堂は、醍醐山が醍醐天皇の勅願を受けて直ぐの延喜7(907)年に聖宝が建造を開始、聖宝没後の延喜13(913)年に落慶したという、醍醐寺創建期にさかのぼる仏堂の一つ。そして、今の薬師堂は再建ではあるものの、唯一の平安時代(後期)の遺構なのです。

 

 

 

 

 


この薬師堂の本尊であったのが、国宝の薬師如来及び両脇侍像です。この像は薬師堂創建時である10世紀の造像と伝えられ、上代の仏像らしい丈六(177cm)の大きな仏像です。美術史研究の上では、薬師如来像は後から造像され、薬師堂創建当初の像は脇侍の日光・月光菩薩像だけだとも言われていますが、いずれにしても平安時代初期までさかのぼる丈六の仏像として、醍醐寺の寺宝の中でも至宝の一つとされます。
古来より薬師堂の本尊として安置されていた薬師如来像でしたが、平成12(2000)年の霊宝館の平成館竣工に合わせて、山から降ろされました。そして現在は平成館の本尊として鎮座しています。

 

 

 

 

 


現在は代わりに新造された薬師如来像が安置されているということですが、堂内は非公開となっています。
この薬師堂は目の前が崖になっていて、見下ろすと礎石の列が並んでいます。これは経蔵の跡で、かつて薬師堂の足元に建っていた経蔵は、昭和14(1939)年の山火事で焼失してしまいました。この山火事では経蔵の他、再建される前の清瀧宮本殿や、さらに6年前に落雷で焼ける前の准胝堂まで燃えてしまう大きな被害が出たのです。

 

 

 

 

 


そして、薬師堂からさらに東へ。女人堂から22丁、いよいよ醍醐山の山頂へ向かいます。
山頂手前で参道は二手に別れまして、北に延びる道の突き当りに建つのは五大堂です。

 

 

 

 

 


五大堂の前に置かれたブロンズ像は、中央が醍醐寺の開基の理源大師 聖宝、左が醍醐寺一世座主 観賢僧正、右が修験道の祖 役小角です。

 

 

 

 

 


密教の明王の中で中心的役割を担う五大明王を祀る仏堂で、五大堂も薬師堂と同じ、醍醐天皇の勅願によって延喜13年に落慶しました。
五大堂も幾度も焼失と再建を繰り返し、現在の御堂は昭和15年の再建。その前の五大堂は准胝堂や清瀧宮本殿を焼失させた山火事よりも前の昭和13(1938)年に火災で焼失しているのです。

五大堂の主である五大明王像は不動明王坐像、降三世明王立像、軍茶利明王立像の三躰は江戸時代初期。金剛夜叉像は体は江戸時代ながら頭部は鎌倉時代、大威徳明王騎牛像はたまたま焼失を免れて平安初期上醍醐創建時のものです。この五体は一組で国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

 

 

 

 


五大明王像[重文] 醍醐寺のすべて展図録より
左から 大威徳明王 軍茶利明王 不動明王 降三世明王 金剛夜叉明王

 


宝物庫である霊宝館ですが、ここに薬師堂の本尊だった薬師如来三尊が置かれているいことは、醍醐寺のすべて展で紹介されていたので、今回の醍醐寺参拝の前から知っていたのですが、実際に霊宝館を入館しますと、平成館の北側に薬師如来三尊は置かれていたのですが、その反対側、南側に北側の薬師如来と向かい合うような位置で、五大明王像が置かれていて、ビックリしました。夏の醍醐寺展が終わった後も五大明王像は山に戻ることなく、山の下の霊宝館にまだおられたのです。
今回醍醐寺を参拝しましてよくわかったことですが、上醍醐の伽藍は落雷とか山火事とか護摩の火とか、しょっちゅうの様に焼失しているのです。昔の戦乱とかならともかく、それこそ昭和から平成のつい近年まで貴重な文化財である伽藍が火災に遭っているのです。
特に6年前の准胝堂の焼失は醍醐寺にとって深刻な影を落とすことになったようで、おそらくこれが五大明王像を山から降ろす大きな理由となったのでしょう。
奈良国立博物館で開催された『醍醐寺のすべて』展は、醍醐寺文書が国宝に指定されたのを記念して開催されたとなっていますが、五大明王像が山から降りたことも、開催の大きな後押しとなったのではと考えられます。
そう思うと、上醍醐の貴重な仏像や寺宝が山から降ろされる流れは、今後も続くのではという気がしてなりません。

そして五大堂を後にして、参道を東へ。いよいよ醍醐山の山頂に建つ御堂へ行きます。もう陽は大きく西に傾き、夕日が山を赤く染めます。
上醍醐の一番東となる区域が醍醐山の山頂です。ここには如意輪堂と開山堂という、豊臣秀頼が再興した二宇の国の重要文化財に指定されているお堂が建っています。
山頂の西側が如意輪堂。崖に半分せり出しているために、清瀧宮拝殿同様の懸造りとなっています。

 

 

 

 

 


開基の聖宝が准胝観音と如意輪観音の二尊を自分で彫って醍醐山に祀ったのが醍醐寺の始まりとされ、如意輪堂はその如意輪観音を本尊とする仏堂です。
さて、この如意輪堂ですが、中にどんな仏像が安置されているのかかなり調べたのですが、そのことに対する説明がどの資料にも無いのです。如意輪堂の中の仏像が秘仏なのか、それとも仏像は中に無いのか、それすら確かめることは出来ませんでした。正直気になります。

ここでは、醍醐寺が所蔵する如意輪観音の中でも特に有名な仏像を紹介します。現在は霊宝館の仏像館で展示保管されているこの像は上醍醐が開山した10世紀ごろのもの。上醍醐清瀧宮社殿に准胝観音と共に伝えられていたといいます。
大阪・観心寺の如意輪観音像と共に、日本を代表する如意輪観音像の誉れが高い傑作で、国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

 


木造如意輪観音坐像[平安時代・重文] 醍醐寺のすべて展図録より

 


そして、如意輪堂の東側に建つのが、上醍醐で一番大きな御堂である開山堂です。醍醐山の開基、理源大師聖宝を祀る御堂です。

 

 

 

 

 


この御堂の本尊である理源大師坐像は、鎌倉時代の開山堂再興の際に造像されたもの。国の重要文化財に指定されています。非常に写実的な容姿で、おそらく初期の御影像を模して造られたと考えられます。

 

 

 

 

 


理源大師坐像[鎌倉時代・重文]

 


そして、上醍醐のすべてのお堂を見て回ったあと、開山堂のすぐ下にある上醍醐陵にも足を運びました。白河天皇の贈皇太后・藤原堅子と白河天皇の皇女媞子内親王・同じく皇女・令子内親王の三人が埋葬されています。全国の御陵の最難所の一つに数えられているそうです。

 

 

 

 

 


こうして上醍醐のすべての伽藍を見終え、下山する前にふもとの風景に目をやりました。それは夕日に染まる美しい洛南の風景でした。この時も足のけいれんはひどく、時間もすっかり遅くなってしまい、決して気持ちに余裕のある上醍醐参拝とは言えないものとなってしまいましたが、この美しい夕景がせめてものご褒美だったのかも知れません。

 

 

 

 

 


こうして20分ほど上醍醐にとどまった後、震える足を引きずるようにしての下山となりました。20分の上醍醐巡りが足休めとなり何とか歩けるようにはなってはいたのですが、それでも震えが止まらない上に、一歩歩くたびに激痛が走る満身創痍の状態。さらに途中ですっかり日が落ちてしまい、真っ暗な険しい山道を歩くことになってしまったのです。

 

 

 

 

 


こんなことも想定して、携帯のライトを用意していたので足元も見えないということは無かったものの、どんな装備を用意万端に備えていても、やっぱり最後の頼りは自分の体一つなのだと、今回の上醍醐へのチャレンジで実感をしました。
こうして女人堂に到着したのが、午後6時半。山規の5時を大きく回って
しまい申し訳ないとは思いながらも、無事に帰れたことに何より安堵したのでした。

 

※追記 ブログの読者の方から、決まりの時間に下山をしなかったことに関して、お叱りを受けました。決まりが守れなかったことに対して、深く反省し、今度はこのような無理な登山計画を決して行わないことを、ここにお約束します。

その4に続く

 
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