僕の大学では春学期の授業を全部オンライン形式で行うことが決まりました。
それに従って、期末試験を対面で実施できないことから大学側はレポートなどの課題によって期末試験の代替をする、という対応をしなければいけなくなりました。
つまり、課題の量が増えました。
なかなかハードな課題を出されることもあるのですが、できなくはないので上手くやりくりしながら取り組んでいる、という状態です。
その課題の中に「あなたは、〇〇〇についてどう思う?」という漠然としたものがありました。
本音を書くなら、「どうでもいい。」でした。
教授と違って深い知識を持っている訳でもないし、僕の意見で何か変わるわけでもないんだからそんな課題出すよりあなたの持っている豊富な知識の一部を教えてくれよ。
でも、そうは書きませんでした。
そうすることは、教授への抗議の表明となるからです。
僕が不満を持っているのはその課題のその質問のみですが、それを書くことは教授の授業そのものや教授という人間をも否定している発言だととられかねない。そう思ったからです。
高校の部活ではそういうことが多かった。
基本的には賛成してるし支持しているんだけど
「ここの部分だけちょっとおかしくないか?」なんてことはたくさんあった。
後輩が先輩を敬い敬語で接するべきということは理解できたし賛成だった。
ただ、後輩は一人称を「自分」で統一する(例、自分はこう思います。)というルールは理解できなかった。
なぜ「僕」や「私」ではダメなのか。
「自分」という呼び方は礼儀を表すものなのか?
会社の面接とかは「私」だよな。
不思議に思った。
でも、そういう発言をすることはできませんでした。
それは僕にとっては一部分でも
先輩たちから見ると後輩がこの部のルールにケチをつけた
ということになるから。
先輩たちの指示にケチをつけることが
「生意気な奴」とか「メンドクサイやつ」というふうになることは容易に想像できました。
そして、どうせそのルールが変わらないことも。
自分の本音に蓋をしながら隠しながら生きていくということがそのあたりから始まりました。
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最近、自分の中に溜め込んで日記だけに書いていたことをこのブログに掲載するということを始めました。
「初めてよかったな。」と思いました。
顔もわからないし会ったこともないし嘘なのかもしれないけど
いいねしてくれたりコメントをもらったりすると
「あ。理解してくれる人がいるんだ。」と感じてかなり気持ちがほっとします。
いつかここに書いてきたような自分の本音を受け止めてくれるような人ができたらこのブログを辞めたいな、と思っています。
まだ書き方は覚束ないですが
読んでくださりありがとうございました。