母の癌と癌治療の進歩 | 猫と元気とちょっぴりの病気と

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忙しい仕事の日々の間に旅行に行くことが楽しみ。
猫とのんびりしたり、映画を見たりとすぐ近くにある小さな楽しみの時間。
「浸潤性小葉癌」と「胸椎骨折の予後」と付き合う日々も同居していて何かと忙しい。
そんな日々の事をときおり書いて行きたいなと思います。

母の事を少し書いてみようと思います。

 

若いころに母を癌で亡くしました。

私は結婚して東京に住み、父母は宮崎でした。

お盆やお正月は主人の実家(千葉)に行く方を

優先しましたので、なかなか会えずにいました。

 

20年ほど前の話です。

その母が年末に入院したと連絡が入り、慌てて

小さな子供と主人と里帰りをしました。

当時、癌は不治の病、告知はとんでもないという

時代でした。

 

私は一人っ子なのに遠方に嫁いでしまい、父や

母の妹(おばさん)が、入院に付き添ってくれました。

 

そして母は肺がんで、余命半年だと聞きました。

夏ぐらいから足が痛くて、近所の病院に通い、

マッサージなどしていたとか。

少しも良くならず咳も止まらずで大きな病院で診て

貰ったところ、肺がんですでに骨などに転移していて

痛みを緩和する治療しか無いと言われたそうです。

 

父も、母も叔母も遠くで家庭を持った私を心配させない

ために病気の事を言わなかったようですが、足が

痛いのはマッサージでも通えば治ると、簡単に

考えていたのでわざわざ連絡するほどの物でも

ないと思った面もあります。

 

たまの里帰りが楽しみで東京に戻る時は涙ぐんで

しまうほど、母が大好きだった私は、その時から

癌だと知らされていない母の前では笑い、母の

居ない所では泣くと言う毎日でした。

 

その頃はLCC等と言うものも無く、正規の運賃

でしたので、何度も何度も宮崎と東京を往復する

飛行機代もずっしりと家計に響きました。

でもそんな事言っておられない

 

2週間ごとに戻ったのですが、毎日会えないから

こそ、坂道を転げ落ちるように母の悪くなって

いくのがわかりました。

 

最初は元気に起き上がって話していた母

次は車椅子でトイレへ

その次はベッド横のおまる

その次は起き上がる事も出来なくなっている・・・

 

その頃の母が、「新しい靴を買って野原を

散歩している夢を見たの。自分の足で

歩くなんて楽しいね」と夢の話をしてくれたことが

今でも忘れまられせん。

 

最期の頃は痛み止めの麻薬で意識ももうろうとし

天井の模様が虫に見え、虫が落ちて来る、等と

錯乱状態になる事もありました。

医師から痛み止めの量を増やせば、意識が

もうろうとして、会話などは難しくなるが、どうしますか?

と聞かれました。

 

母が母で無くなる

私達の事がわからなくなる

でも痛みに苦しむ母は見たくない

と痛みの緩和をお願いしました。

その頃によく有った癌闘病のテレビドラマそのものの

戦いでした。

 

そして半年の余命が4か月になり、病院から

出る事も無く、自分の足で歩けないまま

母は4月20日に亡くなりました。

 

私を育て、ようやく孫の顔を見られたのに。

私もそのうちに母を温泉など連れて行って親孝行

しなくちゃと思っていたのに、親孝行らしきものも

出来ないまま、母を亡くしてしまいました。

 

あの時小さかった子供たちも大きくなり、独立した

時に、今度は私が癌になりました。

転移では無く、単に転んだと言うのが原因の足の

痛みで治療もしていると言う様子も、母の闘病を

なぞっています。

 

でも私の方は進んだ現代の医学で、早期発見

早期治療を受ける事が出来、余命等と言う

宣告を受ける事も無い、幸せな闘病です。

 

母が今発病していたら、健康診断でもっと早くに

見つけてもらい、手遅れになる事も無かったのでは

と思います。

 

医学はもっともっと進歩するでしょうが、少なくとも

母が癌と闘った20年前よりも進んだ検査や治療を

受ける事ができ、今、私はごく当たり前の日常生活

を送る事が出来ている事に感謝したいと思います。