思うに私は、ずっと自分の存在価値を疑い続けてここまできました。
そのきっかけと経緯はこちらです↓
「自分を動かしてきた恐れ 1」「自分を動かしてきた恐れ 2」「自分を動かしてきた恐れ 3」
私の心の深いところに自分で刻み付けた「私の存在は喜ばれていないのではないか?」という疑いの気持ちは、もう夏場冬場のリビングのエアコンの運転音のように、ごく自然な形で私の意識の中でずっと鳴り響いているのです。
この疑いの気持ちを、ずっと悪者にしてきましたねー、自分。
こんな気持ちでいちゃいけない!と否定したりとか
疑いなんて持っていないもん、と無視して“なかったこと”にしようとか、
何かを学ぶことで、疑いを晴らすことができるかもしれない、と外に勉強に行ったりとか、
人の役に立つことをして、喜ばれたらきっと払拭できるに違いないとか、
自分の子どもは疑いの余地もなく人に喜ばれるような人になるように育ててあげたいとか、
疑いの気持ちがあったればこそ、色々なことにトライして、試行錯誤して、
ちょっと人に喜ばれるようになれたかな、と安心しようと思ったりすると、
自分よりずっと素晴らしい仕事をする人の姿を目の当たりにして、
私がいなくても、まったく何にも問題ないじゃない…と、また落ち込んだりして。
今朝も、実はそんな気持ちに陥りかけていました。
まただ~とちょびっと自分を責め、そして毎度、立ち戻るところ。
それは、〈疑いの気持ちがある〉ということをただそのまま受け入れよう、とするところ。
たとえてみれば、畑の土の中のタネになる。
暗いし、冷たいし、何も見えないけれど、ふかふかした土の中にいるタネ。
あ~今、土の中にいるんだな、と、ただそこにいることにする。
疑いの気持ちがある、とただそれを受け取る。
どんな気持ちか?
不安、自分を責めて痛い、(なぜか私の場合は)右腕がシクシク痛んでさすりたくなる。
腕をさすりながら、痛いな~、心が痛い、とただ味わう。
つまり、心の傷をただただ受け取ってヨシヨシする。
自分で自分を責めるとは、心の傷を思いっきり叩くようなもの。
指のささくれ程度の傷だって、ちょっと触るとイタッと思うのに、
心の傷を思いっきり叩いたら、そりゃぁもう痛いなんてもんじゃないでしょう。
良かれと思って、今までずっと自分で自分の心の傷を叩いてきたね。
それしか方法を知らなかったんだね。
と、自分の気持ちや感覚を、畑の土の中の感覚を味わうがごとく、ただしみじみ受け取る。
芽は、自然に出てきます。
太陽と水と土のおかげで、頑張らなくても芽は出ます。
咲いた花が、大輪のバラでも、足元のオオイヌノフグリでも、それはどちらでもOK。
咲く花をキレイに咲かせてやればいい。
思いっきり開けばいい。
そこにその花が咲いていることを、全世界が受け入れて喜んでいることに、咲いてみれば気がつける。
ちょっと勇気が必要ですけれどね。
このことを学ぶために、疑いの気持ちはずっと私と共にいてくれたのでしょう。
味わったからこそ、確信を持ってお伝えできる私を育んでくれた。
そして、きっとこれからもやっぱり疑うでしょう。
うっかり自分を責めちゃうこともあるでしょう。
そんな自分を笑ってヨシヨシできれば、それでOKなんですよね。
