四.隋の中国統一と倭国の朝貢外交
というのは、『隋書』俀国伝には倭国の名はないが、古田武彦はその帝紀に倭国が二つ出現するのを拾っているのは、さすがである。それを孫引きさせてもらうと、
《(大業四年三月)壬戌。百済・倭・赤土・伽羅舎国、並びに遣わして方物を貢す。
(煬帝紀上)
〔大業六年春正月)己丑。倭国、使を遣わし方物を貢す。(煬帝紀上)》
大業四(六〇八)年は、裴世清の俀国遣使の年にあたる。その二年後の大業六(六一〇)年にさらに遣使を送っている。この倭国を古田武彦や中小路駿逸は近畿王朝・大和朝廷に比定してきた。しかし、私は、これを俀国の弟王国・秦王国の朝貢と解したい。
このことを私は、「南船北馬説による倭国通史」の中で、倭国のねじれとしてこう図示した。
後漢 魏 晋、梁、宋、陳 隋 唐
倭国王統(九州王朝) 倭国 ――――→俀国→倭国→消滅
倭国皇統 倭国→日本国→
裴世清は隋が通交するにふさわしい九州王朝・倭国とは、天兄国・俀国ではなく、弟王国・秦王国であると帰国後、上奏し、俀国の二重権力の実態をつぶさに報告したのである。この上奏に応えるように大業四年(六〇八年)に返礼が、続いて六年(六一〇年)に秦王国の隋への朝貢を『隋書』は倭国からのものとして記録したのである。それは俀国からの遣使が、大業四年を最後に「此の後遂に絶つ」のに相反して進行した。
この背景に北魏の華北統一(439)に始まり、隋の中国統一(589)に至る北朝による南北朝(439~589)の統一があった。これ以後、江南に都を置いた南朝(宋・斉・梁・陳)を偽朝とする国是が確立する。その偽朝とされた南朝と通交し、南朝を正統王朝と見て、その亡き後、その衣鉢を継ぐ意思を見せたのが、多利思北孤の隋の煬帝への国書であったと云えようか。
それは南北朝統一を成し遂げ、絶頂にある北朝・隋への配慮を欠く最悪の外交文書として記憶されよう。自分が何者かであることを誇り墓穴を掘った見本がここにある。これまでの中国南朝との通交を続けてきた俀国は、「これからはよろしく」と南北朝を統一した隋の意向を窺うべきところで、多利思北孤は自らを天子と自負したばかりに、煬帝の機嫌を損ね、隋から敬遠されるに至った。これに対し、委奴国以来の倭国王統の正統王朝の陰にあった天神降臨に始まり、神武東征でその皇位を饒速日命(ニギハヤヒ)王朝から簒奪した神武による倭国皇統は、裴世清の訪問を受け、中国における北朝の成立に伴う王朝観の転換を踏まえ、朝貢外交を行うことで、倭国新正統として対外的に自己主張をはじめたのが、この二つの倭国の朝貢記述であったといえようか。
五.九州王朝の南船北馬の興亡
俀国と倭国と『隋書』は書き分けた。その書き分けについて古田武彦は『邪馬一国の証明』(角川文庫)で、こう述べる
《焦点は、次の各欠如部分だ。――――。『北史』は『宋書』(五世紀)の記事を欠き、『南史』は『隋書』(七世紀前半)相当の記事を欠いている〃のである。考えてみれば、これは当然だ。なぜなら、『宋書』の記事(倭の五王)は。〃南朝にのみ関する〃ものであり、『隋書』の記事は、北朝系の〃隋にのみ閲する〃ものだからである。この視点から「国号の差異」問題を見つめよう。
「俀国」という国号は、『隋書』にはじめて出現する。そこで、『隋書』は『後漢書』―『三国志』相当の記事〃をも、「俀国の歴史」の一齣として叙述したのである。「俀奴国」の表記は、その好例だ。これをうけついだのがすなわち、この「北史」なのである。
ところが、〃『宋書』-『南斉書』-『梁書』相当記事〃で終わっている南朝側では、「俀国」などという国号には〃およそお目にかかったことはない〃のだ。すべて「倭国」たった。だから『南史』では、一貫して「倭国の歴史」一齣として処理したのである。すなわち、李延寿が『北史』と『南史』で、それぞれ「俀」と「倭」とに書き分けたのは、決して、〃漫然たる混用〃の類ではない。逆に〃厳密なる峻別〃の表記なのだ。この点、『隋書』における「俀国」と「倭国」の峻別という表記側と、ここでも軌を一にしていたのである。(「九州王朝の史料批判」より240)》
これは見事な分析である。しかし、先に述べたように、古田武彦はこの俀国を九州王朝とし、倭国を近畿王朝・大和朝廷としたため、それが九州王朝内の内部矛盾としてある、筑紫王朝(倭国王統)と豊前王朝(倭国皇統・秦王国)の対立・妥協の矛盾としてあった倭国楕円王朝の動態を見なかった。その俀国と倭国の実勢が逆転するのは、俀国の倭の五王の最後を飾る武、つまり磐井への倭国の継体側のクーデターによる。古田武彦はそれを九州王朝に対する継体の反乱と逆転させたが、それを大和朝廷の反乱としたため、通説の九州の豪族・磐井と大和朝廷の戦いを反転させたに留まり、その枠組みの改変にまでいかなかった。そのため、相変わらず糟屋の屯倉の割譲が説明つかないものとして残った。それは秦王国の秘密に迫りながら、それを九州王朝の兄弟統治に関係させることなく素通りしたことに重なる。
九州王朝は、天神降臨、天孫降臨以来、先在の南船系王統(呉の太伯の後)と後発の北馬系皇統がその覇権を争ってきたが、後漢が委奴国に金印紫綬を与えて以来、南船系王統を中国王権はそれを倭国正統とし扱った。その流れを『隋書』は俀国と記し、これからの新正統に北馬系皇統の豊前王朝に倭国の名を与えたのだ。
その倭国新正統の起源は、原大和である筑豊の倭(やまと)に天神降臨し委奴国を追放した北馬系の饒速日命皇統に由来する。その皇統を倭(やまと)で簒奪し成立した神武皇統を、記紀は皇統の始まりとし、それを畿内大和とするトリック史観をそそり立たせ、原大和の争奪に始まった倭国王統と倭国皇統の歴史を隠し、記紀皇統に先在する列島王権隠しに成功する。
この九州の倭(やまと)の飯塚を追われた委奴国王統が博多湾岸で再興し、後漢から金印紫綬を受け、金印国家として大化けする。ここに筑紫を本拠に置く倭国王統と豊国の南船北馬の両王朝が並立するが、委奴国を中国が認知したことで倭国正統をその後、ほしいままにする。
この博多湾岸の金印国家・委奴国への北馬系の再侵攻が天孫降臨で、博多湾岸は一大率の支配下には入り、また豊国では饒速日命皇統に対する天孫傍流の神武東征が行われ、倭国の秩序が崩壊する。この混乱がいわゆる倭国大乱で、この北馬系勢力の新攻勢を、委奴国勢力と饒速日命系勢力の南船北馬の両勢力が合体し、成立したのが卑弥呼の共立による邪馬壹国の成立で、それは古田武彦が筑紫王朝の離れ座敷とした吉野ヶ里遺跡辺りで成立を見た。しかし、魏・呉・蜀の三国の対立の余波の中で邪馬壹国の表記は邪馬臺国と変動し、委奴王系に百済王系を入り婿に迎えることで、強盛となったのが倭の五王の時代であった。しかし、武王が新羅に陰で肩入れしたため、倭国皇統の継体側の物部麁鹿火のクーデターにあって、倭国権力は王統から皇統側に移った。これを踏まえ、筑紫と豊国の境界線にあった糟屋の屯倉が継体側に割譲されたのである。
この結果、百済が王統から皇統へ乗り換えたことも手伝い、倭国王統は祭祀王と外交権を行使するに留まらざるをえなくなった。その俀国の多利思北孤の基盤が、かつての狗奴国の玉名市に基盤をもったのは百済に見放された以上、委奴系勢力の故地・狗奴国に頼るほかなかったことをそれは物語る。
倭国皇統は九州王朝の実権を握ったものの、倭国王統は九州王朝の権威として祭祀権と外交権をもち君臨したため、九州王朝は兄弟統治という、独自な祭政分離統治を生み出すことになった。
その俀国の多利思北孤が、これまでの南朝に変わる北朝の隋への国書で味噌をつけたのに反し、豊前王朝の倭国皇統は裴世清の俀国遣使の秦王国訪問を千載一遇の機会とし、筑紫王朝の俀国を出し抜き、「もう一つの九州王朝」としてあることを主張し、倭国皇統は隋の臣下として、対等外交ではなく朝貢外交をうたい、俀国に代わる九州王朝のお墨付きを与えられたのが、『隋書』の倭国にほかならない。
六.隋・唐王朝の列島の盟主乗り換え
ところで、古田武彦は小野妹子の大業三(六〇七)年の遣隋使及び、その答使・裴世清の、倭国である秦王国への遣使を、大業四(六〇八)年とする『日本書紀』の記述を、それから一二年した遣唐使の記述とし、それは『隋書』俀国伝の年次に合わせ配置されたと、そこに頻出する大唐、唐客の記述から鮮やかに論証している。
その裴世清の倭国訪問の様子を『日本書紀』はこう伝える。
大唐の使人・裴世清のために新しい舘を作り、難波津に飾船三十艘で迎え、都に入る客人のため、飾馬七十五匹を遣わして、海石榴市の路上で迎えたとある。この難波津は行橋市の御津(三津)で、海石榴市が椿市廃寺のある、今、やちまたの万葉歌碑の立つ辺りであったと思われる。そこが原大和である倭(やまと)の飛鳥の故地があったのだ。その宮廷で「皇帝から倭皇」への挨拶の伝達が行われ、ここに倭国皇統は倭国王統を出し抜く準備が、ほぼ整ったのだ。それは俀国から倭国へ、つまり南船系・倭国王統から北馬系・倭国皇統への完全な中国の乗り換えであった。
この小野妹子の遣隋使ならぬ遣唐使に対する答使・裴世清の訪問によって、唐と倭国皇統との太いパイプは通ったのだ。これに始まる信頼関係が四十年近くして起こった六六三年の白村江の戦いの九年前(六五四年)に、唐の高宗が倭国に、こう述べたところに明らかである。
《 高宗、書を下して之を慰撫し、仍りて云ふ、王の国は新羅と接近せり、新羅、素より、高麗、百済の侵す所と為る。若し危急有らば、王、宜しく兵を遣わして之を救へ。(唐会要より)》
あれは『日本書紀』を読む会であったか、私は山崎仁礼男を誘い始めて出席したのだが、そこで中小路駿逸は、倭国は、二つあって、その一つは九州王朝で、もう一つは大和朝廷で、これはその大和朝廷に唐の高宗が因果を含めているのだと、白村江前後の倭国の記事を網羅した文書を配り説明してくれた記憶が、遠い世界から今、甦って来るのを覚える。
それは後の大和朝廷であって、それはこのときは、「もう一つの倭国」として豊前にあった、かつて『隋書』に出現した秦王国である倭国皇統の使者に、高宗は取るべき臣下の道を指し示したのだ。
唐は俀国とは書かなかったが、これまで歴代中国王朝と通交のあった倭国と、『隋書』で出現した倭国を、裴世清の知識を買い、つき合うべきはどちらの倭国かをよく心得ていた。そして、隋に見放され、唐から距離を取らざるを得なくなっていた委奴国以来の倭国である『隋書』の俀国は、その衰亡がかつて新羅と通じ百済を裏切った事に鑑み、唐に抗してでも、百済復興のためにと乗り出す時代錯誤に陥っていた。しかし、「もう一つの倭国」は、南朝の大義名分にこだわり、袖にされつつある俀国の代わり、朝貢して倭国として認知されることを第一にしたように、いざというときには世界の大勢につくことを胸に秘め、白村江の戦いに臨んだのである。そして決戦の決定的場面で、倭国王統を裏切り、炎々と倭船が燃えさかり、倭人の血で白村江を赤く染めていくのを搦めて傍観し、唐軍により倭国王統軍が殲滅されていくのを見届け、倭国に帰還したのである。
六六四年の唐制の筑紫都督府の設立によって、九州王朝・倭国は解体を余儀なくされ、その中で次第に倭国敗戦における倭国皇統の裏切りもまた明らかになった、六六一年とも六六七年ともする斉明の死の記述は六六七年が正しく、それは倭国王統残党による白村江の戦いで倭国を裏切った朝倉宮へのクーデターを結果したので、六六七年に近江の大津に天智の智がたたえおりり、______________________________________________________________________________________________________________________遷都とは、九州からの逃亡にほかならない。というのは、朝倉宮に付随する神社の表記は朝闇で、それチョウアンと読め、また長安寺址もあることは、唐の都・長安がどれほど倭国皇統にとって羨望の対象であったかを語るもので、このとき、倭国皇統が唐の占領軍との癒着が目に余るものであったことを示す。その斉明の崩御を山から鬼が眺め、天智の懐刀・鎌足の死がそれから二年した六六九年で、それが霹靂、つまり雷が鎌足宅に落ちたと書くが、雷神は鬼であることはいうまでもない。また、それから二年して天智の崩御を『日本書紀』は伝えるが、『扶桑略記』は沓一つを残し天智は山林に消えたと書いていることは、それが鬼に誘拐されたことを語る。それは白村江の裏切りに対する倭国王統の残党による復讐であったろう。
そして、倭国王統の流れの天武が逃亡した倭国皇統の近江朝を、畿内大和の物部氏と組み、六七二年に壬申の乱で潰し、畿内大和で即位したことに、たかだか大和朝廷は始まったにすぎないが、それは九州王朝・倭国の畿内での再興にほかならない。
そのため、畿内大和には天智と鎌足の痕跡は何一つとしてなく、天武と物部系大氏の痕跡ばかりであった。それを、大化改新を造作することで、天智と鎌足の事跡に書き換えたのが今の大和飛鳥の事跡にほかならない。この逆転は天武崩御の六八六年の大津皇子の変に始まるクーデターによる。その最後が犬と蛇がつるんだが、しばらくして共に死んだとあるが、犬が九州王朝・委奴国に始まる倭国王統で、蛇が出雲王朝に始まる物部氏のトーテムであることを知るなら、この変の陰で、それら記紀皇統に先在した倭国王統と出雲王統の流れにある神武皇統に先立つ饒速日命皇統が粛清を見たことを語るもので、それは鬼の粛清と別でない。
鬼が出雲系の大氏と饒速日命の頭音を取り、福が藤原氏と天智の百済王統の頭音をからなっていることは、平安時代の「鬼は外、福は内」とする国風文化の完成とは、先在する列島王権を完全駆除した者の勝ち鬨の標語で、その鬼の中に南船系委奴国を象徴する天狗が隠されていることもまた自明である。