TBSの『JIN』とCXの『東京DOGS』の評判が良い。
『JIN』を観るたび 「だろ・・・やっぱドラマのTBSじゃん」と呟く。
私が 赤坂のテレビ局を受けた際
最終のディベートテストで 「ドラマのTBSか報道のTBSか」がテーマだった。
私は 数少ない ドラマ派だったが 落ちた。
1981年の話ですけどね(笑)
「広告媒体であるテレビ局が報道主体になったら 自己撞着を起こす」というのが
私の主張だった。広告主がもしも社会道義的な過ちを犯した際に
民間放送局が 真実を精確に伝える義務を 持てるというのが
思い上がりだと思ったからだ。
権利はあるだろう。しかしその義務を果たすからには
過ちを犯した広告主に対して それまでの広告媒体費を広告主に返還しなければ
寧ろ 正義は 偽善に陥る。
第4権力としてのマスメディアが果たす役割が
無責任なデマゴーギー(扇動者)になってはならないという大いなる義務を果たすことを
私は求めたつもりだった。
ドラマで人々への感情教育をする。ドキュメンタリーで人々に思考実験を促す。
良質の笑いで 人々の屈託を解きほぐす。
この3本柱しか 民間放送局には ないじゃないか・・・。
今や 吉本興業とジャニーズ事務所の台頭によって逆に視聴率を稼げなくなった
民間テレビ局は とことん 考え直す時を迎えている。
広告媒体としての価値を損なったのは なぜかを 真剣に考えてほしい。
十代の女の子が 消費活動の主体 という愚かな発想を企業も棄てねばならない。
彼女たちが発信するのは 無邪気で無責任な 一時の群集心理にすぎないのだから。
そのことは 彼女たちが一番よく弁えている。ただ自分の言葉で語るだけの
思考経験も 感情の自己コントロールも 彼女たちが持てないのは 当然のことだ。
人生とはそういうものだ。これから それを持ちうる段階を生きているのだから。
人生は 楽しめる。予想もしないドラマが其々に待ち受けている。
だからこそ 感情をコントロールしたり 思考を重ねて壁にぶち当たり
泣いたり笑ったり 恐怖を乗り越えたり 裏切ったり 裏切られたりする
人生の側面を 物語またはドラマを消費しながら 事前に仮想体験しておくのは無駄じゃない。
同時に放映される広告宣伝を通して 巷に出回るありとあらゆる商品を
自分の人生のドラマにどうやって的確に活用するかも 判るようになるだろう。
いつまでも十代でいたいと 少女は願う。
その叶わぬ夢を リトルプレイヤーとしてわが子に託す。
いつまでも十代のつもりで生きてしまう少年は 余りにも多い。
その少年の愚かさは 世に蔓延る犯罪の種子になりうる。
つまり 少女には人類を生き延びさせる希望を見出す可能性に目覚めてほしい。
少年には 人類が滅びる絶望を引き起こす可能性を自分自身の中に見出す
辛い努力をしてほしい。我々オトコは 毎月血を見ずに生きていけるのだから
女性より 冷静になる義務があるのだよ。
JINと東京DOGSの主人公はともにオトコである。
彼らは ともに 十代の少年のつもりで生きていない。
寧ろ 十代になる前の 本当の少年のハートを後生大事に守っている。
17歳の少年は 誰でも 自分が天才だと 思い込んでいる。
文学少年なら アルチュール・ランボーの詩を読んだだけで
自分が天才でないことをあっけなく思い知らされるだろう。
時空を滑り堕ちた青年は 変えられる運命と変えられない宿命が
人間一人ひとりと 人類全体に賦与されている事に気付くだろう。
その地平に輝く淋しさは 孤独を引き寄せる感情ではなく
共に悲しむことによって 慈しみ合う日日という長い道のりが眼前に拓かれ
その道のりを歩むには 十代直前の少年に求められた
あの「勇気」が 最も必要だと 思い知るにちがいない。
アメリカ帰りの刑事君が 持ち合わせている宿命のドラマは
今のところ幾らでも どす黒く予想しうる。
父親殺しの犯人・ジンノに行き着くと
その共犯者が 三浦友和演じる 現在の自分の所属長であり
父親の同僚という予想・・・ね。
映画『L.Aコンフィデンシャル』で あの『ベイブ』で善良な飼い主を
演じていた なんとかクロムウエルという名優が
大どんでん返しを 見事にしてみせてくれたじゃない。
そりゃ TBSドラマ『流星の~』と同じすぎるか!
※ ところで 謎のジンノにショーケンが配役されているって本当なのかな?
『地獄の黙示録』のマーロン・ブランドみたいな感じで
登場したら そりゃあ 面白いだろう。