民進党は代表選の真っ最中。この代表選は党の命運を賭けたものになるとも言われている。前原誠司さんと枝野幸男さんのこれまでの主張をもとに、内政にかかわる大事な論点を整理しておきたい。それはずばり「支え合い」の意味だ。

 

前原さんは「税の本質を取られる」ものから「安心を得るもの」に変えるという。そのうえで消費税も含めた税制の抜本的な改革(=「税のベストミックス」)を訴えつつ、これらを財源として、教育、医療、介護、障害者福祉、子育ての自己負担を大幅に軽減するという。

 

枝野さんは、法人減税等が進められるなかでの消費増税は「大衆増税」だとして、これを行わないと主張する。支出面では、保育・教育、医療・介護分野の賃金を底上げで雇用を拡大し、これらを景気対策と位置づけて、国債も財源にあてていくという。

 

再分配を重視する視点、不平等を正すという視点は両者に共有されている。だが、重要な違いがある。それは「現状認識」と「ビジョン」「社会像」の違いだ。

 

両者の議論の最大の違いは、

 

1)消費増税を組み込むことで豊かな財源を確保し、さまざまなサービスの自己負担を軽くすることで、あらゆる人びとの将来不安を取り除くのか

 

2)税財源を限定し、借入れも認めながら、保育・教育、医療・介護の賃上げを行い、雇用を確保しつつ景気を刺激していくのか

 

という点にある。

 

「大衆にだけ課税するのか」という論点に対しては、前原さんの政見には「税のベストミックス」がある。ゆたかな財源を生み、国民全体で痛みを分かち合う消費税を軸としつつ、「租税間の公平性」、つまり減税続きだった法人税の回復、勤労所得にくらべて負担が軽い不労所得への課税などをセットで検討することが示唆されている。

 

むしろ問われているのは、手法の違いではなくて、「どんな社会をめざすのか」ということだと思う。要するに・・・

 

1)経済成長だけに頼らずとも、僕たちが負担増を受け入れる代わりに、だれもが安心して生きていける社会をめざすのか

 

2)経済成長に頼る社会を維持し、所得の増大をめざし、限られた財源のなかで部分的に生活を保障していくのか

 

ということだ。

 

人生には、子育て、教育、住宅、医療、老後と、極端にお金がかかる時期がある。いままでの日本は、高い経済成長率に支えられ、これらの不安に備えるべく貯金を行なってきた。高度経済成長期、あるいは借金でその穴を埋められたオイルショック後〜1990年代はこれでよかった。

 

でも、1997年をピークに所得が低下の一途をたどり、現役世代の貯蓄は減った。年金の不足、孤独死、老老介護など、高齢者の生活不安も高まっている。いわば、自己責任ではやっていけない状況が生まれ、「みんな」が不安にあえいでいるわけだ。

 

この認識のもと、「不安に怯えるだれかのために税をはらい、不安に怯える自分のためにだれかが税を払ってくれる」という社会モデルを示したのが前原さんだ。だからこそ、みんなで負担を分かち合え、低い負担で爆発的な税収を生む消費税(=財源調達)はどうしても外せないし、これに大企業や不労所得への応分の負担(=租税間公平性)を足し合わせた「税のベストミックス」を打ち出したのだ。

 

一方の枝野さんは、「所得増=貯蓄増=将来の安心」というこれまでのモデルを踏襲している。それは成長率の回復、所得増を強調していることでわかると思う。特に「再分配」と言うとき、お金持ちに課税し、保育士や介護士など相対的に所得の低い層に分配する「これまでの再分配のかたち」を維持しようとしている。

 

この違いは大事だと思う。前原さんは”All for All”を訴え、枝野さんは「お互い様の支え合い」を訴える。マスコミは消費税にだけ光をあて、その違いを大きく取りあげるけれども、これらのキャッチフレーズは双方とも「同じ」だという。だが、反対だ。理念が違うからこそ、政策のあり方に違いが生まれている。

 

枝野さんも格差問題に対する「想い」は前原さんと同じだと思う。だが「これまでのかたち」にこだわった結果、矛盾が生まれてしまった。お金持ちから見て、彼らは一体いつ低所得層に「支え」られているのだろう。どこが「お互い様」になっているのだろう。むしろ「富裕層の寛容さに支えられた弱者救済」じゃないのか。じつはキャッチフレーズは似ていても中身はまったく違っているのだ。

 

僕はこの「金持ちから奪い、弱者を救う」という「社会像」「ビジョン」が「社会の分断」を生む点をずっと繰り返してきた。

 

20年前とくらべてみよう。世帯収入は2割弱低下し、400万円以下の世帯が全体の5割を占める社会になった。世帯収入400万円(ここから税が引かれる)で子どもを2−3人生み希望する子を大学に行かせる、家を買う、老後に備えるなんて、ほとんど無理な話だが、そんな不安を抱える現役世代が大勢いる社会になったのだ。

 

「超」富裕層の増加が批判されるが、じつは富裕層(世帯収入1000万円以上)の割合は97年の18%から12%に減少した。日本企業だって国際的な地位を確実に落とした。それは一人あたりGDPの順位がOECDのなかでもトップクラスだったのが20位にまで転落したことを見ればわかる。国際競争力も同じだ。

 

もう一度考えて欲しい。「困っている人」って誰のことなんだろう。以前なら貧困に苦しむ人たちのことだった。多くの人は、暮らしがしんどくても、昨日より今日、今日より明日に希望を持って生きて来られたから。でも、いまでは貧困層だけではなく、企業も含めた大勢の人たちが将来不安に怯え、困り果てている。

 

そんななか、介護士や保育士、看護師の給与をあげると言っても、なぜ彼ら/彼女らだけが所得が増えるのか、多くの人が疑問をもち、おそらく非難の声をあげるだろう。あるいは、これらの労働者が増えることで介護や子育ての供給が増えると言っても、消費税を避け、借金に頼る以上、その規模は限定されてしまう。それ以前に自己負担額がこれまでと変わらない以上、人びとの生活は一部しか改善しない。

 

別の角度からみてみよう。アベノミクスにオリンピック景気が重なっても将来不安が拭えない現状なのに、介護士や保育士などの雇用が生まれたくらいで本当に私たちは安心して生きていけるのだろうか。いや、それ以前にだ。「一部の労働者の賃上げ」で「アベノミクス+五輪景気」による成長を超えられるのだろうか。

 

枝野さんの「政府に信頼のない状況での増税は避けるべき」という指摘は鋭い。これは非常に重要な論点だ。だが、枝野さんだけでなく、政府が信頼されていないから増税回避を、借金をという人たちは、敗北主義だと思う。信頼の回復は容易ではない。時間がかかる。だが、だからといって、これまでと同様、対処療法で人びとの不安をごまかし続けてよいということにはならないし、なってはならない。

 

そんな余裕はない。お茶を濁すには時間がなさすぎるのだ。いまの生活に満足orまあ満足と答えた人が過去最高という内閣府の調査結果を見てゾッとした。生活水準が以前より悪化していても、将来が不安で仕方なくても、そのことを国民が「前提」としつつある。先進国と新興国の生活満足度が接近しているが、もしかすると、日本は先進国からこぼれ落ちようとしているのかもしれない。

 

「ビジョン論争」に決着をつけるときだ。

 

公共事業であれ、保育士・介護士の賃上げであれ、カンフル剤では本当に痛みは消えない。そのことは有権者が一番わかっている。そして「不毛な選択肢=成長率競争」しか示されないなかで、「一番良さげに見えるアベノミクス」が支持されている。

 

でも争うのはそこじゃない。成長に依存し続けるのか、あるいは暮らしの保障を成長政策と切り離し、前者に政府が「責任をもつ」のか、だ。たとえ国民から信頼されなくとも、税の負担と使い途を丁寧に説得し、それを実践し、国民の生活のために政治生命を賭ける決意を示して信頼を勝ち得ていく、そんな地道な努力を続けて欲しい。

 

もちろんこれが唯一の道じゃない。でも増税しないならしないで、「高度経済成長を前提とする生活保障モデル」でやっていけるだけの所得がこれから得られることをきちんと示し、成長への依存を続けることの正しさを説明しなきゃダメだ。高度成長期の平均実質成長率は9%。バブル崩壊後、減税と公共事業に明け暮れた90年代、戦後最長と言われたいざなみ景気、そしてアベノミクスに五輪需要、これらをすべて足しても平均0.9%。このギャップは成長政策だけでは絶対に埋まらないと僕は思う。

 

今回の代表選、基本的に同じ方向を見つめながら、選挙戦術上のテクニカルな違いが目につく感じだ。でも、僕の専門である財政に関して見る限り、二人の理念には大きな差がある。この違いを党全体が認識し、どうすり合わせていくのかに注目したい。僕の思想が否定されるのはやむを得ない。それが民主主義だ。でも、代表選のあと、財源問題やあるべき社会の姿をめぐって内輪もめする姿だけは、絶対に見たくない。「理想の旗を定めるための最後の闘い」となることを心から願う。

 

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