民進党の代表選が始まった。僕が民進党のみなさんと深い縁を持つようになったのは、前原誠司さんが三顧の礼で僕を迎えてくださったことがきっかけだった。

 一度目。僕の話に共感された前原さんは、講演後に議員会館の出口まで見送ってくださった。こんなことをする議員さんに会ったことがないし、自分でもやったことがないとおっしゃっていた。二度目は新橋での顔合わせ、夕飯を食べながらの議論。膝を突き合わせての懇談だった。そして三度目。小田原までわざわざお越しになって、「どうかお力をお貸しください」とおっしゃった。本物の三顧の礼だった。だからこそ、僕は、自分の学者生命を賭けようと思った。

 前原さんとはそれ以来、二年以上のお付き合いになる。私的に、あるいは党の調査会で、ほぼ毎月一緒に勉強会をやってきた。ときには激論もあった。でもいまでは、僕の思想が彼の発言の血となり肉となっている。きっと僕がいなくなっても、彼は当たり前のように僕の財政論を語るのだと思う。

 まあ、こんな関係だから、どうしても前原さん寄りの文章を書きたくなるよね(笑)でも、前原さんの勝ち負けだけでは済まされない。もし代表選での党内論議を実りあるものにできなければ、もし党としての一体感を生み出すことができなければ、民進党に未来はない。

 だからどうしても書いておきたいことがある。それは、前原さんは「変わったのか」「変わっていないのか」、という問題だ。色んな人が「ニュー前原」と呼ぶのを耳にする。でも、そこにはしばしば「半信半疑」のニュアンスが込められている。僕だって、「新自由主義、保守の前原誠司」というイメージを一新できるものなら、そうしたい。でも、僕は昔の前原さんを知らない。また、人間の思想が簡単に変わるとも、永遠に変わらないとも思わない。だから、ここで「前原さんは変わった」「信じても大丈夫」という議論をするのはアンフェアだと思う。

 今回はこの「半信半疑」の問題をてがかりに、僕たちのめざす社会、僕が民進党に期待することについて考え、話したい。

 

 前原さんが新自由主義的だという背景について考えた。そのなかで、1998年の民主党の基本政策にたどり着いたのだけど、それを見たとき、正直、驚いた。そこには次のように書いてあった。

 

「自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革を行う。これにより、3%程度の持続可能な経済成長をめざす。」

 

 まさに新自由主義だ。民主党は都市型政党。前原さんが新自由主義かどうかという以前の問題として、自民党との相違、都市と農村の対立軸を明確にするため、民主党じたいが新自由主義的な方向に舵を切りつつあった。そのなかで前原さんは政治家として育った。ちなみに、このときの代表は菅直人さん。リベラルの代表格である菅さんでさえ、新自由主義のくびきから自由ではなかった。そんな時代の雰囲気だったんだろう。

 思い出して欲しい。1997〜8年、財政事情は悪化に悪化を重ね、かつてないような政府債務を積み上げていた。おまけに、アジア通貨危機が起き、大手の金融機関の破たんがおこった。企業の海外移転、雇用の非正規化が進み始め、所得や貯蓄の下落が始まり、自殺率も劇的に高まった。

 これらの状況のなかで、「誰が得をするか」から「誰に損を押しつけるか」の争いへと静かに政治レジームは変わっていった。「増やせない」「どこから・誰から削るか」が前提となり、このときに人びとの心を捉えたのが「不正や非効率性を暴き、袋叩きにして、歳出削減の犠牲を押しつける」という政治手法=新自由主義だった。

 公共事業、特殊法人、公務員や議員の数・給与、生活保護、復興予算の流用、そしていまでは医療費・薬価、いずれもがこの政治手法によって血祭りにあげられてきた。左派・リベラルは新自由主義を批判した。だが、選挙公約を見ればわかるように、こうした「ムダをなくす」という議論は、彼らでさえ否定することは難しかった。いわば新自由主義に飲み込まれたなかでの必死の抵抗だったのだ。

 冷静に見れば、新自由主義的なメッセージが有権者の心をつかまえたからこそ、この政策が浸透したし、小泉政権の登場、長期政権化が起きた。新自由主義を支持する民意をつかみ、新自由主義をしかけてさらに自らの支持を強める。悲しいけれど「民意としての新自由主義」という側面を無視した「批判のための新自由主義批判」は、政治的にも、思想的にも、力強さを欠いていたと思う。

 もちろん僕だって新自由主義を批判的に見ている。だけど、大切なことは、新自由主義への批判それ自身じゃない。新自由主義が説得力を持つ時代状況が存在すること、この時代状況を覆さない限り、新自由主義はいつでもゾンビのようによみがえってくるということだ。

 僕や前原さんは、いま、財源論を正面に据えることで、人びとの生活をどのように豊かにできるかを問い続けている。痛みを誰かに押しつけるのではなく、痛みを分かち合い、喜びを分かち合うことで、人間が幸せになれる道を模索している。この「新しい利益分配」が人びとに受け入れられていけば、左派・リベラルとはまた違うかたちで「既得権にあぐらをかく人たち」を叩き潰そうとした新自由主義、左派・リベラルの権力批判を巧みに取り込んだ新自由主義の居場所はなくなる。

 僕は前原さんが変わったかどうかの問題じゃないと思っている。「新自由主義が必要のない社会状況を僕たちが作る」というメッセージが彼に届いたこと、議論の前提が変わったことが重要だと思う。

 新自由主義批判に熱中するのではなく、それが受け入れられる状況、土台をひっくり返す。前原さんは少なくともその決断をした。前原調査会の中間報告によって民進党としてもその理念が共有された。ここが左派・リベラルの新自由主義批判とは同じ方を見つめながらも、それをさらに発展させようとする僕らの立ち位置だ。

 

 さて「保守派」という評価について。国の内外の問題についてそれぞれ感じることがある。外交・安全保障、そして改憲も含めて、前原さんの政治思想は「穏健な現実主義」だと思う。外交や安全保障は、理念の旗を掲げるだけではなく、いかんせん現実主義の立場を取らざるをえない。その範囲のなかで可能な限りリベラルな外交・安全保障を目指すという路線だと理解している。

 この点については賛否ある。僕自身、前原さんと完全に同意する自信はないし、それ以前に僕は知識も浅く、語るべき言葉を持ち合わせていない。だが、各種世論調査で明らかになっているように、国民の関心は改憲にはない。むしろ内政、暮らしの安心だ。この点に関しては、昨年、雑誌『世界9月号』で前原さんと対談した。そこでの彼の発言がこの問題を整理するうえでわかりやすいと思う。

 

「次の政権交代、あるいは衆議院選挙を考えるうえで最も重要なのは、民進党が自公政権とは異なるどのような社会像を目指すのか、そして財源論から逃げずに、社会の分断を生まない分配政策をどう打ち出してゆくかということです。そのために、意見の幅がある憲法というテーマも含めて、違いが断層とならないよう、党内をまとめる必要がある。」

 

「歴代総理を見て思うのは、レガシーと言われるような大きな業績は、幾つも残せるものではないということです。どれだけの任期があるかもわからないなかで、自分自身が積み重ねてきたものの集大成として推し進めるテーマが、憲法改正だとは思いません。」

 

 内政に関してみると、財源論から逃げることなく、人びとの生活保障を行うという僕たちの主張は、社会民主主義に近い(本当は北欧モデルとの違いは大きいのだけれど、この点は、来年出す本で全面的に議論をしようと思っている)。実際、対談のなかで、前原さんは「我われが目指す内政の基本的な考え方は社会民主主義だ」と明言した。正直言って、こっちが面食らったが、ともかく、こちらの政策が改憲よりも重要だと言っているわけだ。たとえ自民党が改憲を打ち出してきても、僕たちは生活保障で立ち向かう、そういうことだ。

 これが「豹変」だったかと言われるとそれはちがうと思う。少し踏み込むけれど、ご本人の著作に書いてあることだから、彼の生い立ちを見ておきたい。

 前原さんは若い時分にお父上が自ら命を絶たれ、大変な苦労をされている。彼は困っている人へのとても温かい眼差しをもっている。だけど、若いときに苦労をして成功を勝ち得た人は、往々にして、弱者に厳しい面も持っている。それは冷たさから来るのではない。自分自身が歯を食いしばって頑張って成功を手にしたとき、弱者が弱者でいることが「努力不足」「自己責任」に見えてしまうからだ。

 僕が前原さんと出会ったときも、その傾向の一端があった。正確に言えば、弱者に救いの手を差し伸べることへのためらい、リベラルの格差是正論への違和感があった。だけど、僕と出会い、彼は「弱者救済」とはちがう、新しい言葉を得た。

 そう、「言葉を得た」という表現がとてもしっくりくる。お金なんかで人間を区別しない、誰もが後ろめたさを感じることなく、堂々と生きていける社会をめざす、そのための尊厳ある生活保障だ。この思想に触れてからの前原さんは躊躇なく、財源論という「政治のタブー」にあえて切り込み、一貫して「社会民主主義」的な内政を主張し続けている。「変わった」のではない。「出会った」ということだ。

 

 前原さんの政治的立ち位置をめぐっては、野党共闘が重要な論点とされることも多い。この点は例の「シロアリ発言」と関連している。僕もこの発言は気になった。正直、なんでそんなこと言うんだろうと思った。だから対談で直接質問した。その答えを少し長いけれど引用しておく。

 

「政策がないまま枠組み論になることのリスクを伝えたくて、あのような発言をしました。過激ではありましたが、政策を置き去りにした枠組み論は不毛です。政策に主体性をもち、有権者の信頼を勝ち取ることが私たちの最重要課題です。枠組み論ありきでは議論が逆立ちしてしまう。政策論議を深め、共闘のフェイズをさらに進化させる。政策論議の果ての共闘努力こそ、私たちの責任だと思います。」

 

 まず、行き過ぎた発言をしたことを反省すべきだと思う。いくら気分が高揚していても、こうした失礼な発言はすべきではない。ただ、この「弁明」は、僕には真っ当なものに見える。「枠組み論ありきでは議論が逆立ちしてしまう」、つまり共闘ありきではなく、政策論を徹底することで「共闘のフェイズをさらに進化させる」。まったく同感だ。そして、彼の思いは、この一年の間まったく変わっていない。

 守るべきものから議論を始めるのか。譲るべきものから議論を始めるか。考え方のちがいはあるだろう。協力できるところは協力するという緩やかな合意のなかでの相違なんじゃないかと僕個人は感じる。どちらかと言えば、色んな思いを抱えているとはいえ、配慮にかけた発言が出てくることじたいを猛省してほしいと思っている。

 

 いろんな人たちの話を伺っていて感じるのは、まず「打倒安倍政権」という大前提があって、そのための権力闘争に勝つことが至上命令となっているということ。これは運動論としては理解できるし、野党共闘によって命拾いするかもしれない政治家がいる以上、この流れが支持されるのもよくわかる。ただ、一学徒である僕は、運動論による政権打倒とはまたちがう道も考えたいと思っている。

 社会の右傾化は生活不安の延長線上にある。中間層の没落の恐怖、襲いかかる将来不安こそが、安倍政権の「行き過ぎ」を黙認する土壌になっている。成果のあらわれないアベノミクスだが、「道半ば」と訴えることで、安倍政権は国民の支持・信頼をつなぎとめてきた。でも、僕たちはこれ以上、経済成長による将来不安の解消という見果てぬ競争に付き合うべきではない。成長がうまくいかないなかでさらなる成長を競い合い、多くの人びとが生活不安に怯えるなかで、格差是正という旗を立てるから、僕たちは負ける。

 むろん、さらなる借金、さらなる財政出動、さらなる金融緩和という選択肢もある。だが、それが機能しないことは90年代、そしてアベノミクスを見れば明らかだ。あるいは、こうした発想自体が成長を目的とした戦後レジームを超えられていない。

 成長を目的から結果に変え、財源論から目をそらさず、弱者への配慮もかかさずに、生活保障を強化していくことこそが残された対抗軸だ。そして、将来不安から人びとが解き放たれたとき、社会の右傾化は収束していくだろう。これまでと形は違えども、左派・リベラルのめざすべき同じゴールにたどり着くはずだ。

 右か左かのレッテル貼りをし、僕たちがそこで対立し合うことはもうやめにしないか?左右保革の対立それじたいが有権者の関心とズレているし、僕の知るメディア関係者もこのくくりでしか線引きができずに、しかもそれで説明しないと読者に分かってもらえないことに苦しんでいる。この現状じたいを僕らは突破しないといけない。

 9月の代表選では、枝野さんや前原さんが内政を軸としつつ、改憲や外交・安全保障についても大いに議論してほしい。「何がちがうのか」に目くじらを立て、「大きな共通点」「めざすべき道」についての議論がかき消される。このことに有権者が一番うんざりしている。

 「尊厳ある生活保障」と「品位ある命の保障」、そして外交・安全保障の「穏健な現実主義」。新しい反転攻勢の旗は示された。むろん枝野さんも骨太なリベラルの旗を掲げてくることだろう。党内論議を経て、さらに理念が研ぎ澄まされ、強い合意にたどり着くこと、そしてその先に、左右保革の垣根を超えた、成長に依存しない、命とくらしを何よりも大切にする新しい社会モデルが示されることを願っている。そのためにも僕たち自身が発想を変えていかなければいけない。「前原誠司は変わったのか?」という問いは、「変わるべき僕たち」という課題を気づかせてくれているのだと思う。

 

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  • ”「前原誠司は本当に変わったか?」から考える。”

    私は選挙区が近い事だけではなく以前、月例の勉強会に出席していた事もあって、枝野議員を支持している。が、同時に今回の民進党代表選が「保守系の前原」「リベラルの枝野」という外野席の高みの見物に惑わされる事なく、自公の利益誘導型政治とは別次元の、「国民的視野で、どのような政治を目指すか」と、安倍政権の広告…

    gon

    2017-08-06 20:22:52

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