ちっとぐらいは知れるがな!

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この前、ある出版社さんの企画でTKOの木本さんと対談したのね。そのときに、いまのお笑いには「知らんがな!」という返しが流行ってるんだというお話があった。木本さんはこの言葉に違和感があるって言う。本当はどんな話でも拾って広げていくのがお笑い芸人の技のはず。でも、突き放して、ちょっと笑いをとって、次のネタに行く。これは違うんじゃないかと。

二人で話題になったのは、「知らんがな!」という言葉には、「俺には責任も関係もない」「それはお前の責任だ」という意味が含まれているんじゃないか、ということ。ようは「自己責任」だが、そういって放り投げるという手法が「楽」で「受ける」という現実をどう考えるかってことだ。対談が終わってからの帰り道、電車のなかでしばらく考え込んでしまった。

自己責任って何なんだろうね。「こうすれば改善できるとわかっているのに、その努力をしないから心配だ、残念だ」、そういう意味ならなら分からなくはない。でも、僕たちが自己責任を語るとき、その根っこには、努力を怠った、だらしない人間を突き放すまなざし、あえていえば、「道徳的な失敗者」を断罪し、見捨てようとする冷淡さがそこに潜んでいるように感じる。

こういうことがある。ある人がまずしくなった時、病気になった時、よく僕たちは自助努力のたりなさ、つまり自己責任だと訴える。努力しないからまずしいのだ、もっと真面目にはたらき、もっと地味に生きていれば、貧しくはならなかったはずだ、あるいは、病気になったのは、不摂生だからだ、自己管理ができないからだ・・・こんなふうに。

しかし、貧困におちいった理由は、心身に病があったからかもしれないし、生まれた家庭がまずしく学校に行く機会が与えられなかったからかもしれない。病気になったのは遺伝かもしれないし、過労やストレスが原因かもしれない。最近、生活保護受給者にメタボが多いという記事が出た。そりゃあそうだ。安いファストフードしか食べられず、野菜に手を出せない貧しい人が太るのは当然じゃあないか。でも、なぜか日本人は、「働かざるもの食うべからず」と感じるようだ。「働かざるもの」はもともと貴族だったはずなのにね。

思うのね。これだけ努力したら成功する、これだけ節制したら病気にならない、そのような具体的な指標が作れるのなら、それをちょっとでも超えた瞬間に自己責任だと判断できるかもしれない。でも、そんな指標作れるわけないし、百歩譲って作れたとしても、数値は人によってバラバラだから、各自の指標を特定し、僕たちがそれをいちいち認識するのには膨大な時間とコストがかかる。

ようするに言いたいことはこういうこと。自己責任かどうかはだれにもわからないはずなのに、なぜ、僕たちは他者を「道徳的な失敗者」としてあげつらうのだろう。

松沢裕作くんと書いた論文のなかでは、「経済的な失敗者」を「道徳的な失敗者」とみなす、日本人に古くからある「通俗道徳」について論じた。貧困におちいった、普通に考えれば気の毒な人たちに同情するのではなく、自堕落な失敗者と切り捨てる日本人の心のあり方。これと財政の関係について考えるのは、これからの僕の大切なテーマだ。

でも、そういう小むづかしい話ではなくて、身近に感じることもある。たとえば、電車での禁止事項、指示事項の多さ。携帯の電源、足の置き方、バッグの背負い方、音楽のボリューム、そして果ては席の譲り合いまで、細かく指導が入る。これが善意から来るもの、お客さんの身を案じ、幸福を願う気持ちからくるのならいい。でも、これらの指示は最近になって急激に増えたよね。もし、お客さんからのクレームを避けるためだとすれば、それは責任回避のための釈明(いいわけ)に一気に近づく。どっちなんだろう。

電車だけじゃない。ジュースや食べ物の表記、テレビのテロップ、いたるところに細かい注意書きが入るようになった。まるで、社会全体が「ちゃんと事前に説明していますよね、それはあなたの責任ですよね」と訴えているかのようだ。昔から自己責任を重んじる日本人ではあったけれど・・・。

僕は、自己責任と他者を突き放すことと、他者の責任を背負い込むだけの余裕がなくなっていることとは、おなじコインの裏表だと思っている。それには、経済的な余裕のなさ、仕事や身分の不安定さ、あるいは訴訟のリスクなど、いろんなものが背景にあるんだろう。

でも、ひとつだけ、確認しておきたいのは、「だれかがそうなっているからには必ず理由がある」ということだ。人間は他者を完全に理解することはできない。だから、僕は、自己責任と切り捨てる前に、「なぜその人はそうなったんだろう」と自分に問いかける「間」をもちたいと思う。

日本は、生きづらく、余裕のない社会になった。だから、こまっている人に救いの手を!という気はない。ただ、断罪する前に、ちょっと理由を考える、そんな余裕さえ失ってしまうとしたら、僕はこの国を、この社会を心の底から愛することができなくなるだろう。最近話題になっている人工透析患者をめぐる騒動。著者の主張の是非以前に、社会にこの「間」が失われつつあることが悲しい。おなじ社会の一員として僕は耐えられない。子どもたちが生きていく社会だ。追いつめる前にもうちょっとだけ「間」を。

ふさぎこんでもしかたない。まずは「知らんがな!」と突っ込む芸人さんを見て笑いそうになったとき、「ちっとぐらいは知れるがな!」と心のなかで突っ込むことからはじめてみよう。
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