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コメントを寄せてくださるみなさん、ありがとうございます。ブログを負担にしたくないので、レスはあえてしてませんが、いつも嬉しく読ませていただいています。
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さてさて。僕のゼミは財政社会学が専攻なんだけど、前期は色んな古典を読むのね。今年度は、アリストテレス、マルクス、ベル、フリードマンを選んだ。賛否両論、好き嫌いはあるけど、歴史に残る本にはそれぞれに理由があって、それぞれに学ぶところがある。学んで生きるのが学生だから。しんどくても古典はちゃんと読まないといけないぞ、と(笑)

いまどきゼミでマルクスを読むって珍しいかもね。いまだに社会主義者のレッテルを貼りたがる人もいるし。でも、右か左かというくだらない話ではなく、歴史を良くも悪くも動かした思想家の本なんだから。教養の一部として、そしてレッテル貼りがいかにくだらないかを学ぶためにも、若い人にはちゃんとこういう本を読んで欲しいと思う。教育ってそういうもんだ。

で、今回読んだのは「ゴータ綱領批判」。この本のなかに「同等の権利は不平等な労働に対する不平等な権利だ」というくだりがある。ここで改めて当たり前の事実に出くわす。「人間の平等」って、ようは能力や資産面で劣る人たちを「不平等」に扱ってはじめてなりたつということだ。

弱者を不平等にあつかって成り立つ平等・・・ここにはふたつの問題がある。ひとつは、いくら弱者とはいえ、「ある人間たちだけを特別扱いすること」への不満。もうひとつは、せっかく助けてもらっているのに、いや、助けてもらってるからこそ、弱者が恥ずかしさや生きづらさを抱え込んでしまうという問題。

このふたつの問題は互いに反発しあっている。だれもが経済的にゆたかで、安定している時代ならいいよね。でも、自分たちが生きることに必死になっているいまのような時代には、弱者への優しさは前提にならなくなる。「中の下」層の人たちが低所得層のバッシングに走る光景は、歴史のなかでもしばしば登場してきたものだ。

一方、弱者は弱者で、助けられたからといって、彼らが幸福になるとは限らない。現実に生活保護を貰う人たちの自殺率は、そうでない人よりもはるかに高い。ジョナサン・ウォルフの言葉で言えば「恥ずべき暴露」の問題。人間はだれだって自立したいと思っている。そういう生きものだ。

あちこちで講演をやらせてもらうんだけど、そのときに僕が必ず伝えるメッセージのひとつに「お金なんかで人間を区別する社会を終わらせる」というのがあるのね。「救済」は反発を生み、そして、屈辱を生む。金持ち批判は、弱者への善意・寛容さを破壊する。だから、そうではない格差の是正の方法がないのか、分配のしかたがないのか、このことをずっと考えてきた。

マルクスがこの問題にどこまで自覚的だったかはわからない。彼は、共産主義社会になれば、「同等の権利の前提にある不平等」という問題はなくなると考えていた。残念ながら、この処方箋が誤りであることは、歴史によって証明されてしまった。

でも、だからといって、問いそれじたいが消えてしまうわけじゃないよね。「平等とは不平等な扱いによって成り立つ」・・・この原理の抱え込んだ問題は、いまのような成長ありきではない時代だからこそ重みを増しているし、それどころか社会的対立の根源となりはじめている。

最近、劇的に仕事が増え、「なんか社会に消費されてないか?」なんて感じたりすることがある。ブログひとつとっても、適当なことを書きたくないから、書く時間をなかなか見つけられない。

でも、「いま」を生きる僕たちの責任として、以上の問いへの答えを考えぬかなければならないし、そうした問いを発見し続けるためにも、僕は古典に帰る余裕を持ちたいと思う。古典から離れ、時論に埋没した時、僕の学者生命は終わってしまうに違いない。
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