明日の毎日新聞に僕のインタビュー記事が載る。ちなみに僕は朝日新聞の論壇委員もやっている。だから、世間的には「リベラル」と呼ばれる立ち位置にいることになる。

(追記:毎日の記事はこちら→http://mainichi.jp/articles/20160430/ddm/014/020/010000c)

ただ、そこには複雑な思いがあるんだよね。リベラルといわれれば、格差是正、反原発、靖国・日の丸・君が代反対・・・というに「違いない」という「レッテル」を貼られる。そこが何とも居心地が悪いんだよね。

僕の祖父や叔父は職業軍人だったのね。徴兵されていないということは井手家の誇りだったりした(笑)そして戦時中のことだ。幼くて戦場にいけなかったもう一人の叔父は、子どもの時に、久留米市の代表で靖国に参拝しているんだよね。

ところが祖父も、もう一人の叔父も、戦死してしまった。戦争が終わって、僕の家は全財産を失った。すべて国債にぶっこんでたから、全財産が紙切れになった。土地も農地改革で取りあげられた。祖母も、母も、叔母も、叔父も、戦後大変な苦労をした。そしていわゆるひとり親家庭に生まれたのが僕なわけだ。

こんな僕の生い立ちが関係しているんだろうね。僕にとって国を愛することと、格差をなんとかしたいということとは、まったく矛盾しないんだよね。そしてこう思うわけ。ほとんどの日本人が僕と同じような気分なんじゃないか、って。

レッテルを貼るというのはじつにわかりやすい攻撃方法だ。だけど、そういうことを好む人たちは、ほとんどの場合、相手の主張や考え方の根っこにあるものをちゃんと理解しようとせず、ただ本能的に相手をそしり、そして最悪なことに身内に同調を強いる。いまの政治も、ネット上の議論もかなりこういう側面があると思う。

ミルトン・フリードマンという経済学者がいる。ちょっと経済学をかじった人なら知っているかな。新自由主義の権化、市場原理主義の伝道者ともいうべき人物だよね。リベラルが毛嫌いすることでも有名だ。でも、思うんだよね。フリードマンの本をきちんと読んで批判している人は、どれくらいいるんだろう。

正直、僕も彼の議論は大嫌いだ。だけど、これだけ世界に広がった考え方なんだから、必ずみんなが共感を覚えた点があったんだと思わない?もし、そうだとするなら、頭ごなしに批判する前に、ちゃんとその点と向き合うべきだ。そして、よい点を自分たちの議論に取り込み、乗り越えていかないと、説得力のある思想なんて生まれるはずがない。この努力をしなければ、あとできることといえば、古臭いイデオロギーを誰かに押しつけることくらいしかないよ。

『資本主義と自由』という本があるのね。このなかでフリードマンは格差の是正を否定していない。フリードマンは寄付で格差を是正する可能性を考える。でも、ある人だけの寄付で格差が小さくなるとすると、その他大勢の人たちは「ただ乗り」で格差を是正できることになる。だから、みんなが格差を小さくするという「共通の目的」のために税を払うのは意味がある、という。

ここまではリベラルとかわらない。ところが、だ。自分たちがそうしたいから払うのならいい。でも、「貧しい人を助けることは正義だ」といって、道徳をちらつかせながら、考え方の違う人達にも税を払うように「強制」してくる人たちがいる。この瞬間にフリードマンは、税による格差是正は許せなくなるというわけ。

僕はこの洞察は正しいと思う。多くの人が右派にも左派にもおぼえる違和感は、この「押しつけがましさ」なんじゃないかと思う。リベラルはよく、困っている人をどうして助けないんだ、私たちは連帯すべきだ、という。でも、そう言われた瞬間に、多くの人たちは、本能的に反発してしまうんじゃないかな。無党派層、支持なし層が多いのも、リベラルの言葉がインテリの戯れ言のように言われるのも、このことと関係していると思う。

僕は格差を是正したいと思っている。そのために自分の全知全能を傾けたいと思っている。多くの学者、運動家もそう思っているに違いない。でも、そうならなおさら、この社会に存在する影響力のある議論をていねいに追跡し、なぜ人びとが自分たちとちがう議論を支持するのかについて考えることが大事だと思う。

フリードマンがもっとも大切にしたものは"freedom"だ。「リベラル(=自由)」は彼の語る「自由」を「寛大に(=これもliberalのもう一つの意味!)」受け止め、それを乗り越えていくための理論を考えていくべきだ。「レッテル貼り」が生むのは「分断」であり、「分断」は「他者への想像力」を殺してしまう。そのことに僕たちが加担していないのか・・・冷静に考えたい。
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