政党の英語は"party"だよね。政治の本質は、線を引いてあちらとこちらを区別し、特定の部分(part)の利益を代表することにあるわけだ。二大政党の状況ならまだいい。でも、もし多くの小政党が乱立し、それぞれが分断線を引きまくっていったとしたらどうなるんだろう。民主党と維新の党の合流問題を見ていても、小さな違いが多すぎて、(出戻りが多いことでわかるように)大部分が同じでも、話がまとまらない様子が伝わってくる。有権者も個別利害に絡め取られて、「だいたい同じだからいいか」と言えない状況になってるよね。

友人たちと「分断社会を終わらせる」という本を書いたのね。そのなかでは、いまの政治の行き詰まりを打破するためには、むしろ何が共通の関心事か、何が共通のニーズなのかを争点とする、そういう政治が大切だということを示した。「みんなの利益」という視点だ。富裕層と貧困損、高齢者と現役世代、都市と農村、男と女、正規社員と非正社員、(able-bodiedとしての)健常者と障がい者など、僕たちの社会はズタズタに分断されている。それはこれまでの政治の結果であり、また、いまの政治の原因でもある。

東大の井上達夫さんと議論をした。井上さんは、この前出された本(通称「リベリべ」)で「リベラル」を上手に定義してくださっている。大事なことは「相手の立場に立っても、自分はその主張に賛成できるか」という基準を持つこと。生活保護批判をする人たちは、自分がそのもらう立場になっても生保はいらないといえるだろうか。それがリベラルのいう「正義」の前提。

その話を受けて、ふと、55年体制下の自民党を思い出したんだよね。自民党の政治はまさに"party"の政治。それぞれの利害団体に財源を配り歩いていた。いわゆる族議員政治だ。あちこちにまんべんなく利益を配っていた状況なら、ほかの誰かと自分が立場が入れ替わっても、そっちで利益をもらえるんだから、文句をいう筋合いはないよね。表面だけをつかまえれば、族議員政治も、これはこれでリベラルな政治だったということかもしれない。日本型社会主義なんて変なキャッチフレーズがあったのも理由のないことではないんだと思った。

でも、財政が厳しくなり、みんなに配り歩くことができなくなると話は違う。日本の財政は、義務教育や防衛費など、みんなの利益となる部分は、ほんのわずか。ほとんどが個別利害の集合体だ。そうすると、分配のパイが減れば、当然、余計にもらっている人=既得権者のことが目につくようになる。その人たちを袋叩きにし、より多い分配を授かろうとする人が出てきてもおかしくない。きっとそれが今の政治状況だと思う。袋叩きの政治がいかに支持され続けてきたか。ハコモノ、特殊法人、公務員、生活保護・・・そして、最近では薬価・介護費でしょ。人を引きずり下ろして溜飲を下げるいやな政治だ。

ようするに、分配するパイが減っていくとき、個別の利害関係が前提になると、奪い合い、非難のし合いが意味を持つ政治状況が生まれるということだ。人口の縮減が叫ばれる時代。「個別利害」を「共通利害」に切り替えていかないと、貧しくなるなかでのいがみ合いという最悪の状況が生まれかねない。いや、もう、それは始まっていると思う。おそらくは、支持なし層や無党派層の増大も、自分たちの必要に目を向けてくれない政治、罵り合いを繰り返す政治への失望の結果なんじゃないかな。

ただ、注意すべき点がある。歴史上、既得権とは無関係で、あたかも「全体の利益の代表者」のような顔をして、いつも独裁者はあらわれてきたからだ。小泉さんや橋下さんを人びとは支持し、最近では田中角栄さんが注目を集めている。英雄を待望する雰囲気と全体の利益・共通の利益を求める国民、このふたつが「奇妙な婚姻」をしないように注意しながら、みんなの利益とはなんなのか、じっくり考えていきたいと思う。

付記 岩波書店「世界」の来月号で分断社会・日本についての座談会をやってます。関心のある人はご一読を。
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