軽井沢のバス転落事故。まさに惨事だ。

こんなに悲しいことはないよね。もし、自分の学生が同じような状況になったと思うとゾッとするし、自分の子どものことを考えると、遺族の心境を推しはかるだけで泣けてくる。若い人の命には、まちがいなく、僕のそれよりも希望があり、情熱がある。命が終わるには順番があるはずじゃないか。その自然の理を人間が破壊するのは、最低、最悪の不条理だよ。

そう思うからこそ、このニュースに対する社会の受け止め方を見て、とても強い違和感を覚えた。

良し悪しはともかく、これが十年前なら、事故を起こした運行バス会社や運転手、そして仕事を委託した旅行会社への猛烈なバッシングが起きていたはずだよね。でも、マスコミ報道やワイドショーを見ていると、なんとなく「仕方ないな」「またか」という「あきらめ」の雰囲気が漂ってる。

一番考えさせられたのは、ご遺族のひとりが「社会問題」だと指摘したこと。

被害者が加害者を慮らなければいけない社会。

どこかおかしくない?

家族の不幸への怒りを抑えて問題提起する姿は痛々しかった。いや、はっきりいえば、共感したよ。でも、反対に、同じ遺族でも、関係者への怒りをあらわにするケースがある。注意したいのは、「社会問題だ」といった遺族の方はとても立派な人なんであって、許す、あきらめることが当たり前という風潮が広がるとすれば、それは絶対におかしいということ。

今回の事件の背景には、低価格で仕事を依頼せざるをえなかった旅行会社の存在があるよね。デフレ経済のもとではお馴染みの光景。そして、低い金額で受注せざるを得なかったバス会社がいて、大型バスの運転が苦手だと言いながらも、契約社員として過酷な労働に追いやられた運転手がいる。

被害者はあくまで乗客。でも、どうしても、誰もが犠牲者だという思いがつきまとうよね。だからこそ被害者側から「社会問題」だという指摘もでてくる。事故という側面と格差社会という側面、光の充て方を変えれば、被害者と加害者の線引がとてもあいまいになるじゃない?そして、悲惨な事故、若い命の犠牲という事実にもかかわらず、どこか同情的な空気が世間を覆っていく。はたして、このことは、健全なのかな。

正直、僕は「不気味な寛容さ」を感じる。寛容がいけないのではない。寛容にふるまうしかない、強いられた状況への憤り。怒りは人間の大切な感情のひとつ。もっと怒りの矛先を正しい方向に向けられていいはずなのに。

加害者を袋叩きにしろ、と言いたいんじゃないのね。運転手、企業、そして、人間をそのような状況に追い込んで平然としているこの社会、それじたいへの怒り。「社会問題」と言わざるを得なかった遺族の思い、その静かな語り口の根底には、計り知れない憎悪と怒りがある。言葉ではなく、その思いを受け止めたいよね。

多くの人びとが貧しくなることを恐れ、そうなる可能性をリアルなものとして受け止めている。働いても報われないことの不条理さを抱きしめ、加害者の不幸が自らの不幸に重なる、そんな奇妙で悲しい状況が生まれているんじゃないのかな。

思えば、みのりフーズの廃棄物の横流しも、同根の問題だよね。賞味期限切れでも、安けりゃ買うさ、そういう消費者は明らかに増えている。賞味期限と消費期限の区別なんて以前は知りもしなかったよね。加害企業の罪はもちろんのことだけど、そういう風潮が企業を後押ししている側面もある。昔なら絶対にありえなかった。異常事態が当たり前のように受け入れられるのは不自然だと思う。

問題はこれにとどまらない。

SMAP問題。多くの人達が「なぜ謝っているんだろう?」「誰に謝っているんだろう?」そう感じたはず。ブラック企業問題をさして「社畜」という言葉がよく使われたけど、「会社をやめる自由」さえ与えられないのは、スーパースターでも同じだったというわけだよね。夢も希望もない話。

芸能界村のルールは古い時代の日本そのものなんだと思う。謝罪に来た、来なかった、やめる時のゴタゴタが世間を騒がせた、要するに「道義的責任」を果たせと言っているんだろうね。でも、その「道義」は多くの日本人にとっては、そこまで大事じゃなくなりはじめているし、そのずれた価値観、道徳観のせいで、SMAPのメンバーという「個人」も怒りや不満を封じ込められてしまった。

時代の転換期には伝統的秩序と新しい秩序がせめぎあう。そのことはとてもいいこと。でも、新しい秩序が「あきらめ」「同情」による「不気味な寛容」であふれているとするならば、そんな社会を生きるのはつらいよね。感情を正しく表現できない社会、それは、支配され、抑圧された人びとの集団でしかない。支配と抑圧は希望に背を向けている。

フランスの外交官だったステファン・エセルは、「一人ひとりが怒りのテーマを見つけ、歴史の大きな流れに加われ」と叫んだ。状況はいっそう厳しい。「怒りのテーマを見つけられる社会」の前に「怒ることが許される社会」を。抵抗と創造の基礎を僕たちの社会に・・・。
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