経営理論の考察(3) 経営理論は役に立つのか? | 線路の外の風景

線路の外の風景

様々な仕事を経験した管理人が、日々思っていることなどを書き綴ります。基本的に,真面目な内容のブログです。

 既に予告したとおり、カーネギー学派の話は次回に回して、今回は大上段からの問題、そもそも経営理論は役に立つのかという話を書きたいと思います。

 

1 経営学を学んだだけでは企業経営は出来ない

 管理人は、ヤフーの知恵袋で色々な人の質問に答えることもありますが、この人は経営学というものを勘違いしているのではないか、と思うような質問を見ることがあります。例えば、中小企業診断士の資格を取れば、企業経営の代行が出来るのか、経営学の博士号を取得した人は、なぜ企業を設立して会社を経営しないのか、といったものです。

 結論から先に言えば、大学の経営学部、大学院の経営学修士課程などで経営学を学んだとしても、また中小企業診断士の資格を取ったとしても、その知識だけで企業経営を行うことはまず不可能です。経営学に限らず、大学で学べる机上の学問にはそもそも限界があり、管理人が卒業した東京大学法学部でさえも、大学で学べたことは、法曹実務のために必要な知識のせいぜい2割くらいではなかったかと思います。

 もっとも、管理人は法学部の授業にかなり出席してきた方であり、法学部を卒業するには本来90単位を取得すれば良いところ、管理人が卒業までに取得した単位数は、他学部で取得したものを含め合計163単位に及び、当時開講されていた実定法科目をほぼ取り尽くしたという人間ですが、当然ながら法学部卒の中ではかなりの変わり者です。法学部では、授業の際に出席を取らず、司法試験や予備試験の勉強をしっかりやっていれば、授業を一切受けずに期末試験だけで単位を取ることも可能であり、実際にそうする人もいるので、そのような人が法学部の学びで得られたものはほぼゼロ、比較的授業に出席していた人でも、大学で学べたことはせいぜい1割前後、と答える人が多いのではないか、と推測されます。

 それでも、法律学については、まだ法曹実務の内容と親和性がある方であり、経営学とは事情が異なります。既に書いた記事のように、数々の経営理論から学べる教訓というのは、「業績好調でも慢心しない」「焦って高値つかみしない」「経営者の個性は組織全体のパフォーマンスに強く影響する」などと言った抽象的なものが多いわけですが、本文だけで全803頁にものぼる『世界標準の経営理論』の内容をすべて理解したとしても、また何年も勉強して中小企業診断士の資格を取得したとしても、それによって得られる知識の内容は、現実の企業経営に必要な知識の、せいぜい1割にも満たないのが現実ではないかと思います。

 

 実際の企業経営に必要な知識や情報は、極めて多岐にのぼります。大学の経営学部や、中小企業診断士の学習過程で学べる知識は、経営学の各種理論のほか、財務会計や法律の知識、政府の中小企業支援政策、経営に関する情報技術の動向といったものが主なものになると思いますが、実際の企業経営に必要な知識や情報は、自社や競合他社が販売・提供している商品やサービスの内容、業界全体の動向、顧客側のニーズといったもののほか、世界的な経済の動向、各国政府の経済政策といったマクロ的な知識、取引先の動向、各従業員の能力や意欲、適性といった個別性の高い知識も含まれ、また知識だけでは無く、対人的なコミュニケーション能力、リーダーシップといった能力も必要になります。

 このブログでは、まだ経営学の主流である経済学由来の諸理論をほとんど取り上げていませんが、有名大学で経営学などを専攻し、幹部候補生として鳴り物入りで入社した若手社員が、大学で習った経営理論を早速活用して、企業の現状を分析して経営計画を立てたとしても、大抵はうまく行きません。その主な原因は、学問的な手法による分析を重視するあまり、現場の実情を軽視してしまったり、現場の状況を感じ取る能力が低下してしまったりすることによるものであり、このような状況は「分析麻痺症候群」と呼ばれています。

 経営陣やその幹部候補生であっても、人間の認知能力には所詮限界がありますので、経営判断に必要な現場の状況を熟知していないことは当然あり得ます。そのため、例え初期の経営計画が上手く行かなかったとしても、実行プロセスを見直すと同時にそれを学習の機会とし、学習内容を踏まえて事後的に戦略を創発していくことが必要になります。そのためには、企業の戦略や経営計画を、経営陣や本社の経営企画スタッフだけで策定するのではなく、現場を含めた組織全体で生み出していくことが必要であり、入社当時は現場の実情を何も知らなかった幹部候補生の新入社員であっても、こうした学習アプローチを繰り返していくうちに、やがて現場の実情を熟知し、有用性のある経営戦略を立てられるようになると言われています。

 法曹実務においても、大学の法学部で学ぶことや、司法試験・予備試験のために学ぶ法律学は、所詮机上の空論に過ぎませんが、司法試験に合格した者が実務修習を経て、その後裁判官・検察官・弁護士といった実務法曹の仕事に携わることによって、机上の空論であった法律学を実務に応用する実務的思考が徐々に身に付き、次第に実務法曹として大成していくと言われていますが、企業経営においても、やはり実務経験を積んで現場の実情を熟知してこそ、経営の専門家として有為な人材に成長していくわけです。

 

2 経営に学問は不要か?

 日本で起業に成功し、カリスマ経営者と呼ばれるような人が、皆大学で経営学を学んでいたかというと、必ずしもそうとは言い切れません。むしろ、中卒や高卒といった学歴の低い人が、並外れた才覚を発揮して起業に成功したという例も少なく無いことから、日本ではこうした低学歴の成功者を称賛する傾向が強く、企業経営に学問など不要だ、むしろ東大卒などの高学歴経営者が日本をダメにした、などと言われることさえあります。

 実を言うと、管理人自身も若い頃は、それと似たような考えの持ち主でした。法学部では憲法・民法・刑法といった実定法学のほか、政治学なども一応学びましたが、管理人の見たところ、日本における「政治学」と言われる学問は、ほとんど外国人が書いた政治学の文献を紹介しているだけであり、現実の政治を考える上で役に立ちそうな話はほとんどありませんでした。

 若い頃の管理人は、経済学や経営学の有用性についても懐疑的であり、経済学の理論と言われるものは、実際には複雑な要素が絡み合って出来ている経済事象について、その一部分だけを切り取って分析し、数式によるシンプルな「経済理論」なるものを構築しているが、その経済理論を現実に当てはめようとすると、その理論では考慮されていない様々な要素が存在するため大抵は上手く行かない、果たしてこのような理論が現実社会の役に立つのか、と本気で思っていました。

 経営学についても、現実の政治が政治学の理論に基づいて行われていないのと同様、現実の企業経営が経営学の理論に基づいて行われているようには見えない、法律学のうち実定法学については、良くも悪くもその法律によって現実の社会が動いているのだから学ぶ価値がある、会計学についても企業会計がそのルールに基づいて運用されている以上学ぶ価値があるが、経済学や経営学について学ぶ価値は特に無いと考えていました。そのため、管理人が大学在学中に、経済学や経営学に特段の関心を持つことは無く、履修した科目の多くは実定法科目に偏っていました。

 

 しかし、管理人の考え方が次第に変わってきたのは、司法修習を終えて弁護士の実務に入ってからでした。当時の日本では、新自由主義経済思想と呼ばれるものが幅を利かせており、どのような業界でも自由競争原理を導入すれば、質の悪い事業者は競争によって淘汰され、良質な事業者だけが生き残り、それによってサービスの質が向上すると声高に主張され、様々な分野で規制改革が実行されました。弁護士業界もその例外では無く、司法試験の年間合格者数を3,000人にするという数値目標が掲げられ、合格者数の増加による質の低下を防ぎ、質量共に豊かな法曹を社会に送り込むと称して、法科大学院の修了を原則的な司法試験の受験要件にするという、現在の法科大学院制度が設けられることになりました。

 管理人は、こうした司法制度改革の中身を知るにつれ、このような改革が上手く行くはずは無いと確信するようになり、実際にも散々な結果となりましたが、法科大学院制度自体は悪い意味で定着してしまい、法科大学院を修了して法曹界に入ってきた人の多くは、もし法科大学院制度が廃止され、優秀な人材が法曹界に入ってこられたら自分たちの居場所が無くなってしまうとの理由から、法科大学院制度を擁護するようになりました。法科大学院世代でないベテラン弁護士の多くも、法科大学院教授のポストをあてがわれるなどして、法科大学院制度に取り込まれてしまいました。

 管理人は、このような変わり果てた法曹界の姿に絶望すると共に、このような現象は法曹界に限ったものではなく、むしろ日本社会の至る所で見られることに気付きました。タクシー業界でも自由化が進められた結果、都心の主要道路は客待ちのタクシーで溢れかえるようになった一方、住宅街などではタクシーの姿はほとんど見当たりません。また、日本経済も長らく衰退の一途を辿っており、その主たる原因は、政府や各企業において合理的な意思決定が行われていないことにあるように見受けられました。

 このような現状を見るにつれ、管理人は新自由主義のような偏った経済思想では無く、合理的根拠のある正しい理論に従って政府や企業の運営が行われるようにならなければ、日本という国はますますダメになる一方ではないかと考えるようになり、それまであまり関心の無かった経済学や経営学の分野にも、関心を持つようになったわけです。

 

 この問題に関連して、東大生は官僚養成学校だ、東大生はマニュアル思考が強いなどとよく言われます。管理人は今年の5月、大学時代の思い出を一本の小説にして某文学賞に応募しているのですが、当時のことを思い出しても、それ自体は当たっていると言わざるを得ません(この小説については、文学賞に落選した場合には、ネット上で公開する予定です)。

 管理人自身、自分が1年間務めてきた学友会会計理事の仕事について、60頁に及ぶマニュアルを作った人間ですし、東京大学の学園祭である駒場祭などの運営にあたっても、他大学では考えられないほど細かなルールやマニュアルが整備されています。また、地方公務員として就職したある東京大学農学部の卒業生が、職場の仕事にマニュアルが全く無いことを知って憤慨し、1年余りで役所を退職するまでの間に、自分の行った仕事についてかなりの量のマニュアルを作ったという話を読んだこともあります。

 こうしたマニュアル思考の東大生・東大卒の人間は、一般論として新規の起業に向いているとまでは言えません。起業で成功するには斬新な発想力と人間力が必要であり、このような能力は学問によって身に付く性質のものでは無いからです。しかし、学歴に関係なく才能のある人が起業に成功し、会社の規模をどんどん大きくしていくと、概ね年商1億円を超えたあたりから、壁にぶつかることが多いと言われています。経営の分野では、「年商10億円の壁」などと呼ばれる現象です。

 年商が1億円を超えるくらいまでの、比較的小規模な企業であれば、有能な社長によるワンマン経営でも会社は回っていきますが、それ以上会社の規模が大きくなると、社長1人では会社全体に目が行き届かなくなり、会社の管理をする幹部社員が複数必要になります。経営判断にあたり、法律や会計、金融などの専門知識が必要となる場面も多くなり、これを理解するには高度の学力も必要になります。そして、多数の従業員を動かすにはマニュアルが不可欠であり、学力が高くマニュアル思考の強い東大卒などの人材は、こうした局面でこそ実力を発揮するのです。

 もちろん、マニュアルは大きな組織を動かす上で必要不可欠であるものの、これによる弊害もあり、経営学の分野でもこの点に関する議論はなされています。『世界標準の経営理論』では、第16章でこの問題が論じられていますので、このブログでも近いうちに取り上げる予定です。そして、組織のトップに必要なリーダーシップに関する議論も多くなされており、アメリカではマッキンゼー・アンド・カンパニーという、社員のリーダーシップを訓練する企業も登場しており、『世界標準の経営理論』でも第18章がリーダーシップ論に充てられています。

 そして、企業経営におけるAI技術の活用が進んでいることも、見逃してはなりません。近年、データサイエンスと呼ばれる分野が脚光を浴びるようになっていますが、例えば小売店で、「明日はこの商品を何個仕入れたら良いか」という質問をすると、AIは経済学的・経営学的知見のほか、過去の売上データなどに基づき曜日、気候その他の事象による売上の変動要因を瞬時に分析し、「500個が最適です」といった答えを出してくれるまでに技術が進歩しているそうです。

 実際、既にコンビニ業界などではこうしたAI技術が活用されており、データサイエンティストなどと呼ばれる人材は、こうしたAI技術を活用したデータ分析を行い、企業の経営判断に必要な材料を提供する仕事をしているわけですが、こうした技術を活用した経営を行っている世界規模の大企業と、社長1人の判断に頼っている昔ながらの中小企業とでは、対等に勝負できるはずがありません。

 データサイエンスの問題については、『世界標準の経営理論』でも言及されておらず、管理人も暇なときに動画を観たりして少しずつ勉強しているだけなので、ブログの記事として本格的に取り上げられるかどうかは分かりませんが、学問的知見も正しく活用されれば、経営の分野でも大きな力を発揮するというだけでなく、世界的規模で活動しているグローバル企業は当然のように最先端の学問的知見を活かした経営を行っており、わが国の企業においても、むしろ学問的知見を積極的に活用した経営が行わなければ国際競争の場で勝負できないということは、以上の説明だけでも概ね理解して頂けるだろうと思います。

 

3 経営学がバラバラな理由

 ここまで、管理人は「経営学」「経営理論」という用語を、特に何の説明も無く用いてきましたが、わが国における経営学の位置づけは、大学によって大きく異なり、はっきり言ってバラバラです。以下、わが国の主要な大学における経営学の位置づけを概観して行きます。

 

(1)東京大学の場合

 東京大学では、「経営学部」という学部は無く、経済学部が経済学科・経営学科・金融学科の3学科に分かれています。そして、経済学部経営学科では、企業経営にかかわる様々な方法に関する教育が中心に据えられており、経営管理、人事や商品開発、市場開拓、さらには財務の方法や資産の運用・調達に関する理論的(ファイナンス理論)方法とその実践、会計制度の現状とその歴史的推移、様々な商業の事情、企業経営に関する歴史的研究などが、ここで教育されるトピックとされています。

 そして、大学院経済学研究科は、経済専攻とマネジメント専攻に分かれ、マネジメント専攻は更に経営学コースと数量ファイナンスコースに分かれており、経営学コースが経営学を学ぶための専攻、数量ファイナンスコースは金融商品の知識等を学ぶための専攻とされています。

 

(2)京都大学の場合

 京都大学では、経済学と経営学を学部・学科によって区別しておらず、経済学部で経済学・経営学を横断的に学ぶものとされています。1年次には、ミクロ経済学、社会経済学、マクロ経済学、経営学、会計学、統計学1、経済史・思想史、情報処理、現代経済事情という9つの入門科目が設けられ、これらの科目によって経済学と経営学の基礎を固めるものとされています。

 大学院経済学研究科においても、経済学と経営学の分離は行われておらず、同研究科の修士課程は研究者養成プログラム、高度人材養成プログラム、英語で講義が行われる東アジア持続的経済発展コース、国際連携グローバル経済・地域創造専攻の4つに分かれています。

 

(3)一橋大学の場合

 一橋大学では、経済学部とは別に商学部が設けられ、商学部がビジネススクールと位置づけられており、商学部で学ぶ主要4領域は、経営学・マーケティング・会計学・金融論とされています。大学院は、2017年までは商学研究科でしたが、現在では経営管理研究科という名称になっており、修士課程は「経営学修士コース 経営分析プログラム」と、研究者養成コースの2つに分かれています。

 なお、商学部と経済学部の違いについて、商学部のウェブサイトでは次のように説明されています。

 

「商学部での教育・研究で扱う内容を一言でまとめると、『企業経営に関わる現象を対象とした応用的な社会科学』といえるでしょう。ここから3つのことが示唆されます。この3つが、経済学部など他の社会科学系の学部とは異なる、商学部の特徴です。

 第一に、企業経営に関する問題・現象に焦点が当てられていることです。経済学をはじめとする他の社会科学でも、企業経営に関わる問題は部分的には扱われています。しかし商学部で学ぶ商学・経営学では、こうした企業経営の領域に対象が絞られています。

 第二に、対象が企業経営に絞られているものの、それにアプローチする方法は限定されていないことです。企業経営に関する問題・現象を分析する場合には、経済学、社会学、歴史学、心理学、法学といった隣接する様々な領域の考え方が応用されています。例えば、金融論には、多くの経済学の理論や考え方が反映されており、両者の結びつきは強いといえます。とはいえ、商学・経営学全体としては、経済学とだけ関係があるわけではありません。会計学は法学と、経営学は社会学などとも関係が深いのです。その意味で、商学・経営学は「応用的」な社会科学なのです。

 第三に、「応用的」ではあっても、独自の考察方法が発展していることです。例えば、経営学の領域の1つである経営組織論では、社会学、心理学、経済学などの考え方を基盤として、企業組織の問題や現象を扱っていますが、そこで考察されている内容は社会学などにおける考え方を直接適用したものではなく、独自の理論体系として発展しています。あるいは、会計学の一領域である監査論では、公認会計士の判断・意思決定を分析するのに心理学を応用しますが、分析の対象となっているのは心理学とは異なり「高度な知識を有する専門家」であるため、その研究成果は逆に心理学の発展にも寄与しています。

 商学部で扱う内容は経済学部よりも実践的であると見られることも、しばしばあります。ビジネスの現場で直接役立つ内容を扱っているために、このような印象を持たれる方が多いかもしれません。しかし、「経済学が基礎で、商学・経営学は実践」、あるいは「経済学は抽象的で、商学・経営学は具体的」という区別で、両者の違いがすべて説明できるわけではありません。上述の3つの点とも関係するように、商学部で扱う問題や現象は応用的であると同時に、学問的にも固有の領域をもっています。

単にビジネスの世界で役に立つというだけでなく、学問的にも独自の視点から、企業経営に関する問題の本質を掘り下げています。商学部で学ぶ「実学」には、しっかりとした理論の裏打ちがあるのです。」

 

 このように、経済学と経営学の融合を図る京都大学、経営学そのものをあまり重視していない東京大学と異なり、一橋大学は商学の独自性を強調しているところがその大きな特徴と言えます。

 

(4)早稲田大学の場合

 早稲田大学にも、政治経済学部とは別に商学部が設けられており、商学部の科目は経営トラック、会計トラック、マーケティング・国際ビジネストラック、金融・保険トラック、経済トラック、産業トラックの6つに分かれており、3年次から始まるゼミの属するトラックが、各自のトラックになるという仕組みが採られています。早稲田大学では、商学部と関連する大学院研究科を併せて「商学学術院」と称しており、商学学術院に属する大学院の研究科は、商学研究科、会計研究科、経営管理研究科(ビジネススクール)が設けられています。

 なお、早稲田大学の商学部では、商学をビジネスの研究にとどまらず、経済社会を質的・量的に豊かにする学問であると説明しており、創設以来「学識あるものは実業の修養に乏しく、実業の修養あるものの多くは学識を欠く」という認識を持ち、これら両面の修養を兼ね備えた「学識ある実業家」を育て、社会に送り出すことが建学以来の教育理念とされています。

 早稲田大学では、同じ商学部であっても、研究対象をビジネスに限定しない点において、一橋大学とは異なる「商学」概念が維持されているわけですが、管理人としては「経済学とどう違うの?」という疑問を抱かずにはいられません。

 

(5)慶應義塾大学の場合

 慶應義塾大学にも、経済学部とは別に商学部が設けられており、学ぶ分野は経営学フィールド、会計学フィールド、経済・産業フィールド、商業学フィールドの4つに分けられています。関連する大学院は商学研究科のみのようです。

 慶應義塾大学における「商学」は、現代の産業社会全体を対象とする理論的かつ実証的な研究という広い意味でとらえ、商業学、会計学、経営学、産業・経済の知識を体系的・有機的に学ぶものとされており、一橋大学や早稲田大学とも微妙に異なるようです。

 

(6)明治大学の場合

 明治大学には、政治経済学部とは別に、経営学部と商学部の両方が設けられており、商学部では3年次からアプライド・エコノミクスコース、マーケティングコース、ファイナンス&インシュランスコース、グローバル・ビジネスコース、マネジメントコース、アカウンティングコース、クリエイティブ・ビジネスコースの7コースに分かれるものとされています。

 経営学部では、2年次から経営学科・会計学科・公共経営学科に分かれ、経営学科では主に営利企業のマネジメントについて、会計学科では会計情報について、公共経営学科では行政組織や非営利組織のマネジメントやスポーツマネジメントについて学ぶものとされています。

 明治大学では、戦後になりアメリカ式の経営学を学ぶ経営学部が、戦前からある商学部から分離独立したという独自の沿革があるようですが、両学部の学習内容についてはかなりの重複・競合が見られ、少なくとも管理人としては、商学部と経営学部を分けることに、さしたる合理性があるとは思えません。

 

(7)横浜国立大学の場合

 あまり多くの大学を挙げるときりがないので、最後の例として、横浜国立大学を挙げておきます。

 横浜国立大学では、経済学部とは別に経営学部が設けられており、学問領域はマネジメント分野、アカウンティング分野、マネジメント・サイエンス分野に分かれています。他大学の商学部・経営学部では、経済学関連の科目が開講されているところもありますが、横浜国立大学の経営学部には、「経済」の名を冠した科目名は見あたらず、経済学部との違いが強く意識されているようです。

 

 このように、商学・経営学の位置づけは大学によって大きく異なり、大学でこれらの学問を学ぼうとする生徒たちを少なからず困惑させているのですが、どの大学でも商学ないし経営学において、アメリカ由来の経営学(経営理論)のほか、企業経営に不可欠とされる企業会計の分野を取り扱っていることは概ね共通しており、違いが見られるのはそれ以外の分野をどのように扱うか、ということだと考えられます。

 アメリカでは日本と異なり、意味不明な名称の学部が乱立するという状況にはなっていないようですが、そもそも経営学とは何か、経営理論の目指す目標は何かという根源的な問題については、学者間でも意見の一致が見られないようです。

 このあたりの問題は、『世界標準の経営理論』第39章で比較的詳しく述べられているのですが、問題状況を率直に述べた論考として、2015年にミシガン大学のジェームズ・ウォルシュ教授と、ペンシルベニア大学のトーマス・ドナルドソンによる共著論文『リサーチ・オーガニゼーショナル・ビヘイビア』の要約部分(入山氏が日本語に意訳したもの)を紹介します。

 

 法は正義のために、医学は健康のために、そしてビジネスは「    」のために。

 我々は、ビジネススクールの学生に、上記の空欄に言葉を埋めてもらうという作業を何度も行ってきた。この問いを学生に投げかけると、きまって最初に訪れるのは「奇妙な沈黙」である。彼らは、みずからの口からその答えが出てこないことに驚くのだ。そして教室は、「我々は答えを知っているべきだ。なのに、我々はその答えを持っていない」という空気に包まれるのである。それでもやがて、彼らは少しずつみずからの答えを語り出す。ある者は「ビジネスは利益、金銭、そして富のためにある」と述べる。別の者はより広範に「価値の創造やイノベーションのため」などと主張する。さらに別の者は「調整、交換、生産、そしてイノベーションのため」と述べ、別の者はよりマクロ視点から「商業、経済、集合的な幸福、そして社会のため」と述べる。そしてついには「自身の欲、権力、支配欲のため」と言う者さえ出てくるのだ。

 

 経営学を学ぼうとするビジネススクールの学生だけでなく、長年にわたり経営学を研究している学者でさえも、ビジネスの定義やビジネスモデルの定義は論者によってバラバラであり、見解の一致を見い出せないようです。上記論文も、ビジネスの目的はコレクティブ・バリューの最適化ではないか、という問題提起で終わっているところ、その概念はウェル・ビーイングに近いものであるとも説明しています。

 ウェル・ビーイングとは、日本語では精神的・身体的・社会的に良好な状態を指すものと定義されていますが、「ビジネスはウェル・ビーイングのためにある」と定義するのであれば、要するにビジネスは幸福追求のためにある、と定義するようなものに過ぎません。当然ながら、何をもって幸福とするかは個人によって大きく異なるため、経営学の目的についても結局のところ曖昧にならざるを得ない、ということになります。

 日本の大学において、経営学の扱いが各自大きく異なるのも、その目的自体が曖昧であるという経営学の性質に由来するところが大きいと考えられます。さらに、アメリカをはじめとする世界各国の経営学では、経営学の分析手法は経済学・心理学・社会学といった他の学問分野における考え方を応用しているに過ぎず、経営学独自の理論と呼べるものはほとんど無い、そのため経営学が他の学問より格下に見られている、などという問題意識もあるようです。日本の大学における商学部・経営学部が、既に見たとおりその独自性を殊更に強調しているのは、このような問題意識の裏返しと見る余地もあります。

 

 次の話題へ進む前に、前述した「ビジネスは何のためにあるのか」という問題について、管理人なりの見解を若干述べておきますが、ビジネスという現象を研究対象とする経営学は、その人がビジネスにどのような形で携わるかによっても、その利用目的を大きく異にするものであり、そもそもビジネスないし経営学の目的を一義的に定める必要は無いと考えられます。

 ただし、現実の企業活動において、単なる連結経常利益の最大化などという純経済的な目的を掲げても、その目的に多くの従業員や利害関係人などの賛同を得るのは難しく、むしろ企業の経営理念などにおいては、企業活動を通じて何らかの公益に寄与するといった目的が掲げられるのが一般的ではないかと思われます。

 マイクロソフト社においても、全盛期にはパソコンなどのオンライン機器を世界的に普及させれば、世界の誰でもオンラインで世界最高水準の教育を受けることができ、これによって教育格差は無くなり貧困の撲滅に繋がるといった高尚な目的が本気で議論されていたところ、現実の世界がそのような方向に全く進んでおらず、また開発途上国などの人々に対し懸命な普及・啓発発動を行っても目的達成が難しいことを知ると、有能な従業員たちの多くがマイクロソフト社を退職し、かつての勢いが失われていったという話を、管理人は別の本で読んだことがあります。

 経営学の理論で、ビジネスの目的やビジネスモデルのあり方を議論する価値があるとすれば、企業でイノベーションを起こすにあたっては、単に利益獲得を目的とするのでは無く、多くの有能なメンバーを惹き付ける魅力的で高尚な目的を掲げる必要があるのではないか、という話くらいかと思われます(なお、これはあくまで管理人個人の仮説であり、学問的な検証を経たものではありません)。

 

4 経営と経営診断(コンサルティング)の違い

 中小企業診断士が行う業務は、中小企業者に対する「経営診断」とされています(中小企業支援法第11条)。中小企業診断士以外の者が行う経営コンサルティングも、経営診断と本質的に異なるものでは無いと考えられますので、ここではまとめて「経営診断」と呼ぶことにしますが、実際の企業経営と経営診断の違いはどこにあるのでしょうか。

 管理人が、なぜこのような問いを敢えて立てるのか、疑問に思う方もおられるかも知れませんが、経営学というものを全く知らない人の中には、「中小企業診断士は経営のプロなのだから、会社の経営を代行して大きな利益を上げられるはずだ」「経営学の博士号を取った大学教授は、いわば経営のプロであるはずなのに、どうして自ら起業しないのか」などという疑問を持つ人も実際にいるからです。そのような疑問は、経営学を学んでいるうちに自然と解消されていくのが通常だろうとは思いますが、それでも経営学の素人さんに対し、経営と経営学の違いを分かりやすく説明するには、どのようにすべきかという問題は残ります。

 実在する企業の中には、他の企業に対する経営診断(経営コンサルティング)を業とするものもあり、そのような経営コンサルティング企業の経営を「真の企業経営では無い」などと主張する趣旨ではありませんが、説明の便宜上、ここでは経営診断以外の業務を行う企業を「一般企業」と呼ぶことにします。

 一般企業の経営においては、経営学の理論は、いわば経営判断における「思考の軸」を提供するものに過ぎず、経営における意思決定は、理論より実務的思考に従って行われます。経営理論に基づいた行動であるか否かに関係なく、業績向上などの成果を挙げられればその行動は成功であり、成果を挙げられなければ、その行動は失敗とされます。経営の現場における状況次第では、敢えて経営理論上の定石を無視した行動に踏みきり、それが成功に繋がることもあり得ます。

 これに対し、経営診断の業務は、一般企業の経営に上手く行かないところがあったとき、一般企業が意思決定をするために必要な情報や専門的知見が不足しているときなどに、一般企業からの依頼に基づいて行われるのが通常です。経営診断は、経営理論などの専門的知見に基づいて行われるのが一般的であり、一般企業の現状が、特段の合理的理由も無いのに経営理論の定石から大きく外れている場合には、その状態を改善することにより問題を解決できる場合があり、また一般企業が判断に迷っているような場合には、専門的知見に基づくアドバイスが有用になる場合もあります。

 分かりやすく例えるなら、一般企業がプロ野球の試合に出場する選手であり、経営診断を行う者は、その選手をサポートするコーチや各種スタッフのようなものであり、経営学や経営理論は、主に選手よりもコーチやスタッフに必要とされる専門知識であると考えるべきでしょう。

 試合に出場して勝負するのが、コーチやスタッフでは無く現役の選手であるのと同様に、現実の社会で勝負するのは一般企業です。コーチやスタッフの力のみで大谷翔平のようなスター選手を作ることが出来ないのと同様に、経営理論の力だけで世界をリードするようなトップ企業を作ることは出来ません。経営診断の仕事は、いわば不調に陥った選手へのメンタルサポートや保健指導に類するようなものでしかありません。

 しかし、大谷選手が常人離れした活躍を続けるために、最新の科学的知見を駆使した身体作りやトレーニングに励んでいるのと同様に、世界で活躍するグローバル企業は、最新の学問的知見を取り入れた経営を行っており、経営理論は決して無駄なものではありません。

 このような基本認識のもと、このブログでは世界標準とされている経営理論にはどのようなものがあり、その効用と限界はどのあたりにあるのか、検討して行きたいと考えています。