せきらら性教育 -13ページ目

重大ニュースです

息子が学校から帰ってきた。

「おかあ、話がある。おとうのいないところで話したい」
「おかあに話したら、おとうには筒抜けや。そやから、おとうの前で話しよし」

うんうん、と頷くだんな。疎外はいかんからのう。

「・・・・あのね、今日、Aちゃんから『一緒にどっかにいかない?』ってさそわれた」

なんやてえ!!! そ、それは、初めての

でえと

のお誘いでは・・・。

「そんでお前、なんて返事したんや????」
「なんていったのかなあ? OKしたのかなあ?」

うりうりうりうり!!

「断った」

お前、その子が勇気出して誘ってくれたのを、むげに断ったらあかんがなあ!!

「でも、僕が断ったら、

その直後に
Mを誘ってたよ。」


最近の若いもんはぁ・・・。

しかしながら、うれしそうな息子。それを見ながら、だんなはぽつんと言った。

「よかったなあ、これで、一生、誰からもデートに誘われなかった、ってひがまなくてもすむねえ・・・」

ありがたや、親心。チーン。

ああ読み間違い

句読点を正しく打ちましょう、ということで、小学校の国語の教科書に出ている例:

「ここではきものを
脱いでください」


ねえねえ、そこのアナタ。どう読まはったあ?

わたしは、思いっきり「ここでは、着物を脱いでください」と読んだ。裸のお付き合いしましょうね。・・・要するに、点を正しく打つことは、大事。必要なところにきちんと句読点など打たな、裸にはなってもらえへん。それが無いと、さて、どうなるか。

友人が「土産じゃあ」とレトルトパックの食品をくれた。そこに踊る文字は・・・

キムチチゲ鍋。

なにいい???

キムチチゲ鍋???

「なんじゃこれはあ!! ちち毛ええええ!!!」
「ちち毛ってなあに??」

息子が聞く。

「乳は分かるな。毛も分かるな」
「ああ、胸毛のこと?」
「いや、それはもうちょっと広い範囲で、もう少し、この、あれやナ、局部集中型・・・」

息子、納得して、

「おかあには乳毛ある?」
「今は、無い」(・・・・ということは・・・・)

そこで、だんなが冷静な一言。

「それ、キムチ・ちげ鍋でしょ」


<今日の教訓>
表現の自由も大事だが、正確な表現が意思疎通のためには必要です。

性について語ることはいけないのか

一応、性教育と銘打ったブログを書いていることだし、教育現場で性に関する問題にも取り組んできたし、芸術家としての表現の問題もあるので、性を表現することについてのわたしの基本的立場について書いておきたい。

わたしは性について語ることは、表現の自由という基本的人権の一要素から鑑みても、自由に許されるべきだと考えている。これは、井上ひさしがいっていたことのぱくりになってしまうけれど、表現の自由が守られるためには、いかなる表現も規制の対象となってはいけないからだ。

これはいい表現だからいいでしょ、これは悪い表現だからいけません、と、善意の規制を始めた段階で、すでに検閲が始まっている。しかも、この「善意」とは一体、なんなのか。誰の善意なのか。何をもって善意としているのか。出版社が「善意」に自粛するような場合でも、一体誰に対してその自粛を行使しているのか。また、そのことによって、誰が得をしているのか。また、良し悪しの基準はどこから来ているのか。

また、このような二元的考え方をすることで、世の中を二つに分けてしまう。それは多くの場合、よいものと悪いものに分けられる。単純な例を出せば、世の中を男と女に分ける。二元論的なこの考えをしている以上、男がいいのか、女がいいのか、という不毛の議論を免れえない。そうではない。そこにはさまざまな個人がいて、多様な価値、多様なあり方がある。男と女に分けるというのは、単に社会習慣として出来上がったグループ分けの一方法に過ぎない。ある場合にはそれが有効な分け方で、ある場合には役に立たない、単なるわけ方に過ぎない。女性差別の敵は男性ではなく、このグループ分けが「真実」であると思っている自分の頭の固さだ。

そう、気をつけていないと知らないうちに、誰かさんの考えが自分の中に入ってきて、わたしの自由を束縛し始める。

ある段階で、わたしはこういった「社会権力(常識)」に屈しないと決めた。だって、まじめに不真面目にしていたらどうなるの? 

いけない表現もいい表現も、ある歴史的条件においてたまたま形成された一つの価値判断に過ぎない。絶対ではない。

では、あなたは差別的表現も許すのか、という質問をされるかもしれない。

これは、難しい問題だけれど、今のところのわたしの立場を言わせてもらえば(二転三転としてきたので、また、変わるかもしれないが)、こういった表現も取り締まるべきではないだろうと思う。でも、それは、その表現を批判しないということではない。表現を批判することは、表現の自由を侵すことにはならないからだ。言論の自由というもう一つの重要な権利の行使に過ぎない。そして、こうした議論の中からしかわたしたちの未来は生まれないのではないかと思っている。

だから、性を表現することは規制すべきではない。もし、その表現が妥当でないと思うのであれば、論拠を明らかにして批判をすることができるだけだ。禁止はできない。

ただ、どんな問題にも例外がある。この性に関する表現でわたしが例外としなければいけないと思うのは、社会的弱者(ことに幼児・未成年)を搾取する形のものだ。ロリコンと呼ばれているものがその中心的なものだ。また、多くのポルノ雑誌もそれに当たるのではないかと思っている。こういった表現は「公共の福祉」に反するので、制限するべきだと思っている。そういった意味において、1999年、ほかの国に大きな遅れをとりながらでも、児童買春禁止法が施行されたのは特筆すべきことだと思う。でも、実際には、実写でなければかまわないという大穴の開いている法であることも付け加えておきたい。

*************
こんなところに個人的メッセージ書くの、変なんだけど、マミ姉さん、がんばってね。陰毛のわたしは裏方で、理論武装してます。

これ、小人閑居とどっちにのせようか考えたんですが、こっちにのせることにしました。まあ、母親としてのわたしの立場です。早いうちに明確にしておいたほうがいいだろうと思ったので、機会も機会だし、書いてみました。


1. 出発間際

義母はここ数年で急激に痴呆が進んだ。また、体調もよくないらしい。わたしたちは離れて住んでいるため、いまいち、現状がうまく把握できない。が、彼女の周りにいる人たちからの要請で、急遽、荷物をまとめて彼女のところへ行った。そのため、3週間ほど不在にしておりました。末期の肺がんで、脳へ転移している可能性が高く、あと2-3ヶ月との診断。

行くにあたって、息子に大好きなおばあちゃんがもうすぐ死ぬことを説明しなければいけなくなった。

「突然やけどな、生きてるもんはみんないつか死ぬんや」
「知ってる」
「そやから、おばあちゃんももうすぐ死ぬんや」
「・・・」
「時期がきたんや」
「・・・」
「それでな、おばあちゃんがきちんと死ねるようにせなあかんねん。医者が注射打って無理やり生かしたり、手術したりせえへんように、せなあかん。それだけやなくて、最後におばあちゃんがどうしてもらいたいのか、それもきちんと決めなあかん。そやから、おばあちゃんとこに行くで」
「おばあちゃん、かわいそう・・・」
「いや、実はな、ボケてるやろ、そやからおばあちゃん、自分が死ぬこと忘れてるみたいや」
「・・・?」
「ボケるゆうのは、本人にとっては、幸せなことなんや」

ボケる人間の周囲にいる者はたまらない。が、ボケたことにより、今まで不平不満の塊で、それを回りにぶつけることで解消してきた義母が、不平不満をぶつけてこなくなった。忘れてしまうらしい。

「それでな、約束したやろ、おばあちゃんが死ぬ前にもっぺん会わせたるって」
「うん」
「これから会いに行くでえ。支度しい」
「でも、死ぬんでしょ」
「まだ、間がある。今すぐには死なへん」

今生の別れや。

「でも・・・」

あのな、死ぬのは怖いと思うかしらんけどな、よう考えてみ。生きとるからいろいろ感じるわけやし、考えるやろ。そやから生きてる限りは、絶対に死なへんし、死ぬことかって経験できへん。そやけどな、死んでしもたら、生きてえへんさかい、なんも感じひんし、考えへん。そやから、死んでしもたら死ぬことなんか関係あらへん。

「・・・・???」
「要するに、死ぬことは経験できひんから知ることはできん。そやからそんなこと考えんでもええねん。生きてる限りは生きてるんやし」
「よくわからないけど・・・でも、やっぱり、考えるでしょ、そうすると死ぬのは、怖い」
「そや、怖い。それは、知ることができひんから、怖いんや。幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつや。その恐怖を利用する悪いやつらがいてるねん。それが、宗教や」
「でも、ジーザスに天国にいけるって言われたらほっとするよ」
「おまえ、それこそようわからんやろ。天国ってどこにあるねん。隣の町までまっすぐ行って、突き当りを左に曲がった右側の三軒目ってわけやないやろ」
「上のほう・・・」
「宇宙に上も下もあるかい」

とりあえず、出かけたのでした。

離婚についてしみじみ語る・続編!

息子が読んだThe Secret Diary of Adrian Mole (Sue Townsend著)を読んでいる。これ、たいして難しい英語じゃないので、是非、原典で読んでもらいたいなあ・・・。イギリス的ドライユーモアが満載で、悲惨で笑える。

「エイドリアンの両親、離婚したところまで読んだ?」
「おお、読んだでえ。おかしいなあ。おとうちゃんと、おかあちゃんの恋人が喧嘩するやろ」
「庭でね。それで、みんなが見に来るんだよね。エイドリアンは二階から見て、喜んでんの。見事なラグビータックル!!とかいって」
「そうそう、そんで、近所のおっちゃんが、お父ちゃんの応援するやろ」
「それで、『一番かわいそうなのは、エイドリアンだ』っていうんだよね」
「ホンで、みんなエイドリアン、見るやろ」
「そうそう、それで、急に『いけない、悲しそうな顔をしなくっちゃ』って」(息子、実演つき)

ひとしきり、笑った後、息子が、しみじみといった。

「でも、やっぱり、かわいそうだよね」
「そやなあ・・・」
「おとうとおかあも離婚するかもしれないでしょ」
「いや、それはないよ」
「そんなの、分からないじゃない。いつ、どうなるか、分からないでしょ」
「いや、おかあには確信があるんや。何でかしってるか。おとうもおかあも・・・

ずぼらやねん」

浮気するようなめんどくさいこと、ようせえへんねん。

「なんだあ・・・」

え、がっかりしてるんですか?

「離婚するとさ、

クリスマスとかの
プレゼントたくさんもらえるでしょ。
 

家族が増えるから」


さて、この発言、ほめるべきか、いさめるべきか。


***************
陳謝: もし、私のもう一個のブログを読んで、「彼のこと」かなんかを読んでいる方、いらっしゃったら、どうもすみません。何にもおきなかったのは、そうです、

私のずぼらのなせる技!

(だけではないですよ・・・もうすぐ、理由めいたことも書くつもりですが・・・)

ゆで卵の作り方

それは、義母のところへいった時。

日本のテクノロジー風呂の使い方が、わからへん!! お湯を入れるのは、蛇口ひねるんやないの? こ、このコントロールパネルはなに!! べ、便器から水が・・・!!!

と、騒いでおりました。わたし、ウォシュレット、使ったことがないんですわ。それで、風呂のお湯をよく温度がわからへん、といいながら、ものすごい熱いお湯を入れてしまいました。それで、息子を風呂に突っ込みました。

10分後。

「おかあ、風呂から出たよ」
「おお、よう、ゆだったやないか」
「お湯が熱かったよ」

ゆだりまくった息子を見て、記憶のそこからピンと来たものがある。

「お前、おばあちゃんとこいって、ゆで卵食べへんかって聞き。そんで、おかあが、僕をゆで卵にしまりました、って言い」
「・・・なんで、僕、ゆで卵・・・?」
「お前、風呂で、ようにゆだったやろ。ホンで、お前はおばあちゃんの孫やろ。

ゆでた孫・・・


































ゆでたまご

分かった?」









息子、爆死。だんなは一言。

「そういうくだらない冗談は、教育的指導です」
「あ、でも、おばあちゃんにとっては
ゆで卵でも、
わたしにとっては
































茹で蛸!




 
ゆでたこ






・・・・ゆでた子・・・・・・・








隙間風が、冷たいなあ・・・。



*******************
付記: ごめんなさい、これ、前半はわたしのネタではなくて、ほかの人のネタです。昔好きだったラジオ番組の「秘訣のコーナー」から。後半は、そのとき思いついたネタなんですが・・・。この番組の、かつてのリスナー、いてるかな? いたらご一報を!

もうちょっとゲイについて語る

「ゲイは結婚できるの?」

またしても、息子のいきなり攻撃。

「うーん、調べてみんとちょっと分からんなあ。確か、できるようになった国もあったんちゃうかなあ・・・」

で、調べてみると結構ある。一番早いのはデンマークで1989年。結婚してるのと同じ権利をもてるけれど、しかしながら、教会での結婚式はだめ。本当の意味で、ヘテロの結婚と同じ意味を持つゲイの結婚を認めたのはオランダが初めてで、これは2001年。結構最近まで認められへんかったんやなあ。

「おかあ、何で結婚するの?」
「結婚は、そら、二人の人間が一緒にいたいからするって言う部分もあるんやけどな、もっとぶっちゃけた法律的な単純な話したら、契約や」
「契約?」
「お金とか、財産をちゃんと二人で共有しまっせえってゆうことやな。ゲイのカップルの結婚が認められへんと、かたっぽが死んでしもた時に、残った人は死んでしもた人の財産がもらえへんねん。おかあかて、おとうが死んだときにお金もらわな困るさかいな」
「おとう、お金あるの?」
「あんまりあらへんなあ・・・おかあもないけどなあ・・・」
「ねえ、そういう契約なんだったら、何でゲイは結婚できないの?」
「してもええと思うけどねえ・・・」

まあ、宗教的な理由が結構あるんちゃうかなあ。キリスト教とかイスラム教とかな、結婚は子供作るため、みたいなところがあって、子供作られへんのはあかん、ゆうことになるみたいや。それから、結婚は男と女がするのんやって思い込みもあるんちゃうか。それで、怖いのはな、この思い込みが、
「男と女が結婚することが道徳的や。男同士・女同士は不道徳や」
ってねじれた思い込みに変わることなんや。
それで、もっと怖いのは、この思い込みが、
「そやからゲイのカップルは不道徳や」
って、むちゃな断定に変わってな、
そこから、
「そやからゲイは不道徳な人間や」
って
めくらめっぽう主張するやつらが出てくるねん
そんでな、そうやって声のでかいやつらがわいわい言ってるとな、
それが
(まちがってるんやけど)常識や、ほんまや
ゆうことになるねん。

「そんなのひどくない?」
「ひどい。これは、あかん」

そやけどな、こういった、「常識」は「そやそや」って言いやすいやろ。そやから、ブッシュのあほが選挙のときに「僕はゲイの結婚は許しませーん」とかいって、票を集めよったんや。

「何でそんなことになるの?」
「TVの見過ぎやな。TVやら、まあほかの雑誌なんかもそうやと思うけど、ゲイを『男が好きなおんなっぽい男・そんで淫乱』っていうイメージを作ってるやろ」
「だから、僕の友達が、ピンクの袋見て『ゲイだ』って言ったわけだね」
「よくできました。そういうの、偏見ゆうて、ようないんやで。そやけど、あれは、あかむらさき!」
「ふーん。じゃあ、淫乱ってどういう意味?」
「それは辞書をお引き」


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付記(今日はかなり長いです): 「ゲイには僕たちみたいにまじめに付き合ってるカップルは多いんだ。彼とは本当に分かりあえて、僕たちは夫婦とおんなじなんだ」って、The Wedding Banquet という映画で、主人公が主張をしていました(彼の名前、正確なせりふは忘れてしまいました・・・)。

わたしは夫婦がお互いに持っているのと同じ権利をゲイのカップルにも認めるべきだと考えています。たとえば、基本的人権の一つである、財産権を考えてみても、そうすることが正しいことは明白です。

また、世界人権宣言の第二条「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的あるいは社会的出身、財産、門地その他の地位がどのようなものであっても、それらを理由にした差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」をみても、ゲイの結婚を許さないのはおかしいのです。

ちょっと長くなるのですが、ゲイの結婚の法制化の最近の歴史をまとめてみます。

1989年 デンマーク: 同性間結婚のカップルに、異性間結婚のカップルと同じ権利を認める。教会での挙式はできない。

1996年 ノルウェー、スウェーデン、アイスランド: デンマーク型の条例を制定。

1999年 フランス: 同棲しているカップルに性に関係なくPacsという契約を認める。この契約から生じる権利には税金の免除、相続権、親権が含まれていない。

2001年 オランダ: 世界で始めて、異性間結婚と全く同じ権利を同性間結婚に認める。

2001年 ドイツ: 同性のカップルに「生涯パートナーシップ」への登録を認める。この制度では相続権のみ保障されている。

2002年 フィンランド: デンマーク型の条例を制定。

2003年 ベルギー: ゲイの結婚が許可される。

2003年 アメリカ: US Supreme Court(最高裁?)において、同性の大人が合意を持ってセックスを自分たちのプライベートな空間においてすることすら違法であると禁止するのは(法律文章はややこしくて分かりにくいな)、アメリカ憲法に違法であるとの判断を下す。

2004年 スペイン: 社会主義政府が家族法の抜本的改正に着手。草案の段階で、同性間結婚にも異性間結婚と同じ権利を認める。この権利には親権も含まれるため、養子縁組ができるようになる。しかし、カソリック教会はこれに反対し、スペインのカソリック教徒に反対運動を起こすよう呼びかけている。

2004年 フランス: ボルドー地方において、政府の警告にもかかわらず、革新派の市長が同性間結婚を執り行う。しかし、法廷において、「性の違うことが結婚の条件である」として、この結婚は無効になった。

2004年 アイルランド:  レズビアンのカップルの結婚権の請求に関して、総理大臣は同性のカップルの権利をある程度認めるべきだと発言。しかし、結婚を認めるのはまだ先になるとも。

2004年 イギリス: 結婚に伴う権利とほぼ同じ財産権・法的権利を認める条例を貴族院が通過させた。2005年から有効になる。しかし、この権利には親権が含まれておらず、養子縁組をすることはできない。

2004年 ニュージーランド: 国会が同性のカップルのcivil unionを認める条例を通過させる。

2004年 アメリカ: かなりの州で「結婚は異性間の結びつき」という州憲法の定義に対する修正案が可決される。しかし、国会では合衆国憲法の修正案に可決することに失敗。ブッシュ政府は合衆国憲法が同性結婚を違法にする修正案を支持するが、各州においては独自の条例を制定することができると発言。

2004年 カナダ: 最高裁が政府に同性間結婚の登録を許可する法律を国会に提案する許可を与える(ややこしいな)。カナダでは一部地域で結婚証明を同性のカップルに発行している(いつからかはちょっと分からない)。

で、日本は?というと、こんなの話題にものぼらないようです。どんな議論が行われているのか、ご存知の方がいらっしゃったらご一報ください。ドイツに行って結婚された方がいらっしゃるようです。

ここで、親権の話が出てきていますが、「家族」というのは大人だけではなく、そこで育つ子供がいることではじまる、という考えがヨーロッパでは根強いのです(Starting a familyはカップルに子供が加わることを意味します)。そういった意味において、親権が含まれているかいないかで、同性間結婚の意味が大きく変わることが分かります。

また、蛇足ですが、アメリカやカナダでは政府と国会と法廷が三権分立の形で、この同性間結婚の問題に取り組んでいることが分かります。これを見ると、日本の裁判所にももうちょっとしっかりして、立法審査権をしっかり活用してもらいたい、と思ってしまいます。

追記: 上記のまとめはこちら の記事を参考にしました。
追記2: 上で言及した日本人の方の記事はこちら を見てください。
追記3: サブローさん、どうでしょう? 長くなりました。ごめんなさい。
追記4: 当方の事情で英語の記事ばっかりです。日本語関係はGoogleで検索をかけると結構出てきますこちら で見てみてください。
追記5: 追記が多くてすみません。

わたしの決意

子供が生まれる前、決めたことがある。

1) 子供を自分の生きる目的にしない。
2) 個人として付き合う。息子は自分の一部ではない。
3) 何があっても驚かない。
4) 掃除はほどほどに。しっかり病気もさせる。

というわけで、子供ができてから、もう一回、大学に入りなおしました。もう、非難ゴーゴーで、わたし、ゴーゴーを踊ろかしらんって思いましたねえ。ゴーゴーは特に、私の母親から大音量で来ましたわ。もう、半年くらい、踊りまくりでゴーゴークイーン状態。

しかも、そのときの専攻が、「社会・文化人類学」と「視覚芸術」。だいたい、すでに政治やら、国際関係学やらなんか勉強して、

結婚できひん体(???)

になってるのに(って結婚してるんですけド)、

何で今更、そんな役にたたんことを、特に芸術やなんて、

川原乞食になりたいんか!! 

(それは、あなた、偏見による差別でっせ)

子供の面倒みんかい!!

と、いうわけで、親とは半年、口をききませんでした。こういうときに、外国に住んでると便利や、思いました。遠いから、殴りこみもかけられへんやん。それに、わたしみたいに子供できてから大学に入りなおす人も、こちらの国では普通にあることやったしね。そやから、だんなはそうすることに大賛成やったし、友達もみんな「そやそや」って言ってくれてたし。

生後半年目から保育園に入って、息子は息子の世界を作り始めたのをみて、子供てたくましいなあ、ちゃんと生きてるんやなあ、って、自分の背中を押されまくりでした。大学の授業の合間縫って、授乳したのも楽しかったし。

母親の生きる背中を見て、子供に育ってほしい。そんで、わたしが自分のしたいことを精一杯してるように、息子にも自分のしたいことを精一杯してもらいたい、思ったしね。母親が、間抜けなことをするように、息子もするやろ。何があっても、おどろかへんで、きちんと話を聞いたろやないか、って。そやけど、知らんと女の子妊娠させてしもたら、困る。そやからちゃんと性教育はしまひょ、て、だんなとも話してね。

そういうわけで、上の決意のリストができました。

4番目は? これはですねえ、こちらの記事がその理由です。皆さん、子供には病気させなあきませんよ。

続・それって3P・・・・

(第一回目はこちら)

あるとき、息子とTVを見てた。孤児院が舞台の、家族のつながりや、愛情、成長について結構、真剣に明るく取り組んでいて、息子もわたしもお気に入り。

その日は、息子ぐらいの年の子が、あの、古典的質問、

「赤ちゃんは何処から来るの」

を聞きまくる、という内容。

男の子は、畑で仕事をしているおっちゃんに聞く。

「赤ちゃんはどこから来るの?」
「ああ、それはねえ・・・」

おっちゃんはおもむろに、咲いている豆の花を指して、

「ほうら、めしべとおしべがあるでしょう」

やばい、思いましたねー。これは、あの、性教育の権威のおっちゃんと同じではないか・・・。

「そうするとハチが来てね・・・」

やばい。逃げよ、と思った瞬間、息子が聞いてきた。

「何でハチがいるの? おとうと、おかあと、ハチ? ハチはだあれ?」
「ハチはいらん。おとうとおかあだけじゃ。三人目がおったらうっとうしいがな。そういうことをする人もいてるけど」(あ、失言!)
「じゃあ、三人ですることもあるの?」
「そ、それは、上級者コースやから、大人になったら専門家から教えてもらいや」(???)

そやから、性教育の時に、比喩使わんとせきららに話してほしいと、切実に思う私でした。


***************
付記: この番組は、孤児院を取り上げています。そこにいる子供たちは、天涯孤独の子供もいるのですが、麻薬中毒の親から保護された子供、事情があって親が手元に置けない子供、養子にもらわれた先からいらないといわれた子供、なども登場してきます。中には、望まない妊娠から生まれたため、親に捨てられた子供たちもいます。

悲しいことに、ここで、赤ちゃんはどこから来るのか聞いていた男の子は、次のように結論を出します。

「赤ちゃんはさ、朝の牛乳配達みたいに、玄関先に配達されるんだよ。その子がいるんだったら、とっとくし、いらないんだったらそのままおいとくと、孤児院の人なんかが取りに来てくれるんだよ」

ありがとうございます

読者が10人になりました。うれしいよう。

なにぶん、ふつつかなもんで、間違ったり、変なことをいったりしてますが、そういうときには、どんどんご指摘お願いします。

息子も元気でかんばってます。わたしはぼちぼちやってます。これからも、ぼちぼち、やってゆきます。

読者になっていただいた方、読んでいただいている方、心からお礼を申し上げます。