雑誌を読む振りをしながら僕は、君の横顔を密かに観察している。
この変てこりんな女の子に、いつしか釘付けになっていた。
僕が君の真似をしているのか。君が僕の真似をしているのか。
いつも君が僕と同じ事をしている印象があり、親しみを感じていた。
やがて、この美容室に通い始めて数ヶ月後、心境に変化が訪れる。

壁に貼られた一枚の随筆があり、それは高校生の君が認めたもの。
その文章を何度も読んでいた僕は感想を君の母親に話した事があり、
文調から滲み出てくる感性なり心象風景が、まるで僕に似ていた。
文末には君の名前が小さく記されており、初めて僕はその漢字を
知ることになる。この時から僕は君という存在を異性として意識
するようになり、髪を切りに行くという目的でも、内心は君が自宅
に居る事を期待していた。ふと芽生えた昼下がりの恋愛感情。

ある日、僕が不機嫌な様子で君の母親に愚痴っていると、その隣に
座っている君が同じく不機嫌な様子で言葉を続けてきた。しかも
僕が喋ろうとした内容を君が先に要約してしまい、仕方なく僕は
黙り込んでしまったと同時に内心は違う事を考えていた。この女子
とは思考回路が似ており、心理的メカニズムが共通していると。
さらには、未だかつて経験した事のない不可思議な磁力が発生する。

ピアノ発表会で君が『幻想曲(さくら さくら)』を演奏した事を、
鏡の上に飾られている君の描いた油絵作品を眺めている僕に、
君の母親がその日の様子を話して聞かせてくれた。平井康三郎という
音楽家が作曲したもので、日本古謡の『さくらさくら』をモチーフに
したと伝えられている。ピアノという楽器の性質を活かして、琴や笛、
和太鼓などの音色を華麗に表現しており、暖かい春の陽射しに包まれて
優雅に咲き誇る桜や、静寂な月明かりに照らされて輝く夜桜が浮かぶ。


 

 


やがて君の母親にピアノコンサートのチケットを頂いた僕は、
席こそ別だったけれど同じ会場で、君や君の母親と演奏を聴くこと
になり、やがて二人は左手の扉から姿を現して斜め前方に着席した。
君と同じ空間で音楽を聴いたのは、これが最初で最後なはず。
演奏はピアノ連弾で、曲目は『ベートーヴェン』の作品であった。
やがてリサイタルの幕が閉じて、会場を出た後に3人で立ち話をした
記憶があり、君の母親の傍らでは君が微笑んでいたのを覚えている。

たしか君は高校時代に弓道部だったはずで、矢筒を背負いながら
家の扉を開けて帰ってきた。僕が髪を切ってもらう順番待ちをして
いる時に、目の前を制服を着た君が通り過ぎて行ったその姿こそが、
初めて僕が見た君であり、その直後に君の母親が僕に挨拶するよう
にと君を美容室内に呼び寄せた。既に君は制服から私服に着替えて
おり、ピンク色のカットソーにグレー色のジーンズを履いていた。
眩い夕陽に反射していた所為なのか、室内が煌めいてもいた。

僕が21歳で、まだ君は18歳だったはず。

僕と君は照れ臭そうにしながら瞳を見詰め合うと、軽くお辞儀を
しては、お互いに自分の名前を伝えた。素直に可愛らしい子だなと
思ったし、これが彼の妹なのかと初めて実感した。厳密に言うと
僕が中学時代のある日、廊下を通り過ぎようとしていた時に、
周囲の男子達が何名か集まり窓の外を覗きながら、帰宅途中だった
君の事を噂話しており、それが僕の耳に入り何となく覚えていた。

時折、君は通訳係の母親を通して僕の印象を伝えてくる事があり、
「綺麗になった気がする」だとか「どうしちゃったんだろうね」と、
何処で監視しているのか知らないけど、僕の内面性を的確に指摘する。
洞察力が鋭い君だからこそ見抜いてしまい、常に僕は心中を見透かさ
れている気持ちでいた。隣の部屋から君が扉を開けて母親に何やら
話かける度に、(また今日も居るな)と微笑ましくなる僕がいた。

 

 

 


幾らか油絵具に慣れてきた僕は描き上げた小品をケースに包むと、
いつもの様に駅の階段を駆け上がり君の家へと向かった。それは
君の母親が室内に僕の絵を飾ってくれるからで、その絵を眺めている
君が僕に、技術が上達したと褒めてくれた。勝気な性格である君を
目の前にすると、立場的な所為もあってか僕は委縮してしまう。過去に
市展で入選した外国人少女の肖像画を君の母親に渡したのが最初で、
その絵を君が夜中に部屋から覗いていた事を君の母親が話していた。


初めての東京上野美術展に出品する事になった僕は、師の手解きを
受けながらパレットに何種類もの色を載せていく。祖父から譲り受けた
筆を手に取ると、混合したオイルに浸しては色を重ねた。そんな最中、
絵を描きながらも常に感じていた事がある。抽象画なら君の方が得意
なのに、どうして僕が描いているのかと。君の描いた作品の彩りは
赤に黄色、緑に橙色で構成されていた。文章を書き絵を描きピアノを
弾く君という存在が、不可思議で奇妙な僕のライバルでもあった。

当日の上野展覧会場には君と君の母親が来てくれた事を後に知ると、
忽ち僕は嬉しくなり、その日からイーゼルに立掛けたキャンバスに
向かう時には、いつも僕の心の中に君がいた。単純な性格だから僕は。
翌年。2回目の東京上野美術展。僕はF100号の大作(具象画)を描き
出品していた。師に頼らずに終始自らの手で完成させた『孔雀明王』。
作品が配送されて自宅に戻ってきた際に、巨大な絵画をデジカメで
撮影した僕は1枚のポストカードを作成して、君の母親に渡した。



君という女性は一見すると(アナタの事なんて意識してないから)
ツン! としている場面があった。胸中に秘めた想いを相手には
悟られたくないタイプ。そのため僕は君が何を考えてるのか全く
理解できなかったし、(生意気な女の子だな ... )と感じてもいた。
しかし僕の心理を事細かに察知しては見抜いていたはずの君は、
君の母親という強力なバックボーンを有効に活かして、巧みに僕を
誘導してはコントロールしていた可能性がある。(この女子は鋭い)

君の兄ちゃんは全寮制の警察学校で生活しており、実家に戻る際に
君の母親が僕と兄ちゃんを並べては一枚の写真を撮ってくれた。
格好良かったよ君の兄ちゃんは、堂々としていたから。正義感が強い
タイプの彼が警察官の道を選択したのは納得できる。中学時代は同じ
サッカー部でもあったし、大会では彼のアシストを受けて得点を
決めた思い出がある。毎日のようにベランダで一緒に弁当を食べた。

中学時代に君の母親が僕の母親に話していた事があって、それは
「家では(兄ちゃんが)エイキの話ばかりするんですよ」だった。
当時を振り返ると、僕が中学2年生の時に君は小学5年生であり、
お茶の間などで君はお菓子を食べながら僕の話を聞いていたかも
しれない。まだランドセルを背負っていた君は、早い段階で僕の
情報を仕入れていたはず。どうりで僕が君に出会った当初、君が
妙に慣れっこい感じがしたのも頷ける。僕からすると不思議だった。

 

 

 


君は知らないと思うけれど、僕の母親と君の誕生日は同じ。
11月16日で蠍座。だからこそ僕は君の誕生日を覚えており、血液型
も君の母親が教えてくれた。ある日の事、僕はサッカー部の後輩
の家に立ち寄り受話器を手に取って、君の美容室の番号を鳴らした。
電話越しに君の母親が君を呼び寄せる声が聴こえる。本来なら面と
向かい告白するべきだけど、どうせ髪が伸びてきたら君に出くわす為、
こんな形でも良いから伝えておこうと決めていた。素直な気持ちを。

「あのさ俺、凛ちゃんの事が好きなんだけど。
 ..... 俺と付き合ってくれないかな。」

「お兄ちゃんの友達だし ....
 それに、まだアタシの事を知らないし。」

立派な君の兄ちゃんに比べて当時の僕といえば病弱な状態であり、
常に抗鬱剤を服用しながら君の家に通っていた。薬の副作用が辛い事
を君の母親に零しながら、情けないことに僕は僅か500円で髪を
切ってもらい、しかも帰りの電車賃まで借りた事もある。こんな僕を
支えてくれた君の母親は『第2の母』のような存在。君の兄ちゃんが
警察官を目指していたから、余計に自分の姿が惨めでもあった ....

薬剤を塗布した頭にサランラップでグルグル巻きにされた僕が、
お店の玄関先で煙草を吸っていたら、バイトに出掛けようとした
君が僕の姿を見て笑っていたのを覚えている。毎回のように君の
母親に色々と説教されながら、洗面台で頭を洗って貰うという
日常の風景。帰り際に無料で高品質のトリートメントを何本か
持たせては、いつも不甲斐無い僕を励ましてくれた君の母親。
温かい思い出だけが詰まっている大切な僕の美容室。

何ひとつ僕は君に格好良い姿を見せる事ができず、寧ろ格好悪い姿
ばかりを君に見られ知られていたはず。君より3つも年上なはずの
僕は引け目を感じながらも、どうしても髪の毛ばかりは伸びてくる
ために、予め君の母親に電話して予約してからお店に訪れていた。
天真爛漫なのか何なのか、そんな僕の心境をまるで知らないかの
様に振舞っている君を横目に、僕は君の母親に髪を切ってもらい
ながら、テーブルに置かれた「せんべい」をボリボリ食べていた。

 

 



居酒屋でアルバイトを始めた僕が、そのお店で出会った女性と
たわいもない話をしながら坂道を歩いていると、よりにもよって
君と君の母親が真正面から歩いてきた。女性と歩いている姿を絶対に
君に見られたくない僕としては想定外の修羅場である。擦れ違う
距離にまで近付いてきた瞬間、空を見上げる事でピンチを凌いだ。
いつも不思議な事に、奇妙なタイミングで君とは鉢合わせてしまう。
この女子はテレパシーでも使えるのか? と僕は本気で考えていた。

(お兄ちゃんの友達だし .... )

この言葉だけが僕の胸中に於いて幾度となく繰り返されており、
実を言うと、お店の女性は美容師さん。これで君を忘れる事が出来る
はずと変に都合良く考えていた僕は、君の母親に予約の電話をしない
よう自らを戒めていた。とは言いつつも常に君の面影だけを引き摺り
ながら絵を描く毎日であり、心の中は虚無感に覆われてしまう。
結局のところ何かしらの用事を偽造しては君の美容室へと訪れていた。

 

美容室内で時間を潰していた午後の事。鏡の横に置かれたボードに
1枚の写真が貼られている事に僕は気付く。頻りに眼を凝らしながら
見詰めると男女二人の姿があり、その相方は紛れもなく君であった。
その瞬間、初めて僕は君という女性に対して嫉妬心が芽生えてしまう。
しかも、こんな目立つ位置でアピールしなくても良いじゃないかと。

「ボーイフレンドが出来たみたいよ。どうなのかしらね .... 」

唖然としている僕に君の母親が言う。ただの男友達なのか或いは
彼氏なのか、という焦燥感に似た想いは無理やり胸中に納めておき、
予期せぬ緊急事態の発生に奈落の底へ突き落とされてしまった僕は、
バイト先の店内で自棄酒を飲みながら、ボトルの裏側に君の名前を
書き記しては眠り込んでしまった。やはり仲の良い同級生の妹という
至難の境遇には敵わないのか .... と失望感に苛まれ続けていた。

(きっと今頃、君は浴衣でも着て花火を眺めてるのかな .... )

 

 

 


やがて20歳になった君が、長めの黒髪に緩いパーマをかけては
淡い花柄のワンピースを着て姿を現した。絵画のグループ展に参加
していた僕は咄嗟に読みかけの本をテーブルに置く。書籍の題名に
ついて君が質問してきた。僕が予想していた通りに君は瞬く間に
美しくなり、(この子は女優になれるかもしれない ... )と感心
していた。君は背が高くてスレンダー。母親に似て美人。聡明な
女性であり母親っ子の性格。憧れの看板娘であった君という存在。


桟橋の上に佇みながら僕は、灯篭流しの行方を独りで見つめている。
夕闇空の彼方からは、祭り太鼓や笛の音色が風に乗って聴こえてきた。
初めて君に出会った日、懐かしい感じを覚えたのは何故だろう。
想いを告げた後も清々しい雰囲気を漂わせては僕の前に姿を現した君。
いったい君は僕の事を、どんな風に想っているのだろうか。
こんなに近いはずの君が遥か遠くに感じてしまう寂しさと切なさ。

遣り切れない想いに締め付けられていると、走馬灯のように幾つかの
記憶が僕の脳裏に甦ってきた。無表情なまま静かに頬を伝う涙は、
そよぐ夜風に拭い去られていく。もうすぐ今年も夏祭りが終わる。


数週間後。君の母親が素知らぬ振りをして僕に言う。
最近、君が図書館に通っている事を教えてくれた。
通訳係である君の母親に僕は従うしかない。
灼熱に歪んだコンクリートの街並みが、自棄に気怠く鬱陶しい中、
館内に辿り着いた僕は何気なく君の姿を探し歩いた。
せめて、もう一度だけ君との時間と空間を共有してみたい。

これが最後かもしれないと予感していたから。
真夏の季節に飾り付けられる風鈴の様な君を想う。



 

 

 

美術書籍の本棚は当時のまま残されており、時間の許す限り
其処に留まっていた僕は、あの頃と同じようにフラっと君が
現れてくれる事を期待していた。あれから15年以上もの月日が
過ぎ去っている。君と同じ名前を耳にする度、反射的に君の姿が
僕の記憶に投影されてしまい、初めて君と出会った瞬間の映像が
未だ鮮明に刻まれており、そう簡単には消し去る事も出来ない。
恋愛におけるトラウマなんて僕らしくないと内心は葛藤していた。

手土産を携えては久しぶりに君の実家を訪ねた時、君の母親と
部屋の中で立ち話をした。そこには君の息子(当時5歳)の写真や、
ウエディングドレス姿で歩く君の写真が飾られており、部屋の片隅
では君の父親が頻りにカメラを調整している。君の母親は画用紙を
捲りながら、絵画教室で学習した内容を僕に聞かせてくれたり、
君の兄ちゃんの娘が喜ぶからと、小さなドレスを裁縫している様子を
見せてもくれた。ちなみに夕食は君の母親の手作り、天ぷら。

実際に僕は君の結婚相手の写真を部屋の中で冷静に見ていた。
KALDI COFFEE で買ったお土産には「小さなクマのぬいぐるみ」が
付属品として巻かれており、これは君の子供にプレゼントする意味で
君の母親に渡してきた物。家の内装は幾つかリフォームされており、
君の母親が僕を案内しながら見せてくれた。思い出の美容室は跡形も
無く綺麗なバスルームに様変わりしており、「この辺に大きな鏡が
あって、その辺に洗面台があったね」と昔を懐かしむ想いで話をした。

(幾つになっても娘は娘なのよ .... )

 

 



家路を辿りながら僕は、妙に複雑な現実を受け止め切れずにいる。
決して嘘を付けない君の母親の性格を僕は熟知しているが故に、
事の真相を直感的に理解していた。最後に君の姿を眺めていた頃は、
僕が24歳で君は21歳。たしか君は駅前のドラッグストアでアルバイト
していたね。君の母親に促された僕は店内まで様子を見に行った
事があり、君はレジに立って接客をしていた。どうしても踏み込め

ない様々な境遇に阻まれていた二人の時間は限られていたはず。



夏の日。

3つも年下の君が自らの意志で、僕の隣に歩み寄ってきた。
僕と君が本を広げたまま立ち尽くした空間。
僕と君が初めて二人きりになれた湘南台図書館。
ほんの一瞬だったけれど、僅か数十秒だったかもしれない。

あの時、二つの魂は同じ事を考えていたはず。
現実世界は幻想であり本当は別の次元で繋がれていると。
言葉を交わさなくても通じ合える感覚が二人にはあったから。

君は、ちゃんとした男性と結婚して幸せな家庭を築くべき人。
決して僕は君を幸せになんかしてやれない。
君と一緒になる資格なんて僕には無い。

これが僕の本心だった。
あくまで、この現実世界に於いては。

だから僕は君に話しかけることもなく離れた。
どれだけ僕は嬉しかったことか ....
君が僕の隣に歩み寄ってくれたこと。

その直後、僕は急いで図書館に引き返しては君を探した。
しかし既に君の姿は何処にも見当たらなかった。