草壁皇子と大津皇子が「女性の取り合い」が原因で対立した、という浪漫な物語(?)は本当なのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

天智天皇が大化の改新で追い求めのは、公地公民、官僚制度の確立による、中央集権国家の確立です。バラバラの氏族の寄せ集めの国から、立派な国家に成長させようという理想です。

しかし、この改革は、従来の権益を持っていた有力氏族の反発を買います。彼ら抵抗勢力は、改革つぶしの旗頭として担いだのが大海人皇子です。

壬申の乱というのは、そのような戦争だったのです。大海人、天武天皇は、権力を握るために、彼ら旧勢力の力を借りたのです。

もちろん天武とて、若くして大化の改新に参加した者ですから、勝利の報酬とはいえ、旧勢力に妥協した政策をとっていくのは本意ではなかったでしょうが、歴史はそう急速には進まないのは仕方ないです。

しかし、天武の晩年、次の権力者である皇后(持統)と皇太子草壁は、「もう恩返しは済んだ」とばかりに、旧勢力を抑えてふたたび改革を進めようとする気配を見せます。なにせ皇后は天智の娘ですから、父の業績を無にする反改革は許せないに違いありません。
このままでは大化の改新の再来になる、既得権益を奪われると恐れた旧勢力が、対抗馬・大津のもとに集まります。まさに壬申の乱の前夜と同じ状況です。

浪漫のない言い方になってたいへん残念なのですが、「恋の鞘当」「女の取り合い」が主原因で大津が粛清された、などというのはありえません。
草壁の母(鵜野讃良皇后、のちの持統天皇)と、大津の母(太田皇女)は、ともに天智天皇の娘であり、しかも太田のほうが姉です。本来は同格といっていいはずの二人ですが、太田が早死し、持統が皇后になったおかげで、草壁が皇太子とされます。しかし、能力的にも性格的にも草壁を上回ったとされる大津は、つねに草壁の対抗馬と見られていました。
天武の皇后ではあるものの、天智の娘でもある持統皇后は、天武の死後、次第に政治・外交を「かつての天智寄り」ラインに戻そうとし始めます。壬申の乱で負けて滅びたはずの近江朝の遺臣たちの登用(その象徴が藤原不比等の台頭)などがその一例です。

こうした路線に不満を持つ「天武寄り勢力」(平たく言えば、壬申の乱の手柄で大きな顔をしているグループ、ですね)が、大津に接近し、これを擁立しようとしていたのです。
こうした「国家転覆の陰謀」を防ぐため、持統は断固として大津を処断して「元を断つ」必要があったのです。

天智は、大海人を切れなかったため、近江朝は滅亡しました。その二の舞は、絶対に避けなければならないのです。
持統は、政治家としては特別に酷薄でも我侭でもないと思います。当然やらなければならないことをやったまでです。これができなければ、日本の国づくりは大きく後退し、外国のいいようにされ続けるのです。肉親の情が云々という余地はないのです。
これは文学ではなく、歴史の話です。国民を安全に、豊かにする責任を持つ国家指導者の義務の話です。どうして人は傷つけあうの、悲しいことだわ、などというナイーブな話ではないのです。
大津に不遜な振る舞いがあったり、わざと草壁の惚れている女性に先回りして手をつけてみたりといったことは、あったかも知れませんし、そのひとつひとつが大津処刑の口実にされたかも知れません。しかし、「発端」というものではないことは確かです。こうした色恋沙汰をクローズアップすることによって、背後にあるおおきな国家的危機を隠蔽する(つまり、この国がそんなにガタガタしていて危ない、ということは、外国や後世への手前、できるだけ記録に残したくない)という意図が、歴史を記す者にあったであろうことは確かです。

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