徳川幕府の老中や若年寄には、譜代大名しかならなかった。だって、じいやは家来がやるものだから。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

譜代というのは、三河松平家の時代から、代々、ずーっと徳川に仕えてきました、とという意味です。
外様、というのは、幕府ができる以前は徳川と同格の大名だった家です。徳川が将軍になったのでその部下になっていますが、本来は「徳川家の外の、お客様」みたいなものです。
江戸幕府というのは三河の田舎大名がそのまんま大きくなったもんで、その運営は、徳川の家来どもだけで行うのが当然なんです。「老中」だの「若年寄」だのというのは、要は徳川家の御家老、じいや、という意味。花輪くんの家でいえばヒデじいです。

政治というのは面倒な金勘定でありヨゴレ仕事だから、殿様の御親戚の手を煩わせることはない。ましてや、お客様に台所で働いてもらういわれはない。
徳川家の台所や帳場には、家来(譜代大名と旗本)しか入らない。
この仕組みが、江戸幕府が長続きした秘訣です。
親藩というのも、殿様のご親戚ですから、帳場や台所の裏方仕事をしてはいけない。身分が違うんです。将軍になる可能性がわずかでもある者は、使用人のする仕事で手を汚してはいけない、だから幕政にはしない、というのが徳川幕府なんです。

わりと勘違いしがちなのが、徳川将軍というのは政治的な権力を握っている、と思われていることです。「それは誤解です」なんていうと、「え?」と言う人が多いと思いますが、徳川家康の偉いところは、自分の後継者に代々、頭脳明晰で有能な子孫が続くはずがない、と分かっていたことです。
だから、将軍が子供でも病気でも無能でも、幕府がちゃんと回っていくような仕組みを作り上げたことです。
政治はすべてそこそこ有能な家来が順繰りにやり、世襲はさせない。つまり老中の息子でも自動的に老中にはなれない。そのためには、大きな領地を持つ大大名は政権に参加させていはいけないんです。
徳川幕府で世襲なのは将軍だけ、その将軍は、家来どもが上げてきた決定を裁可するだけです(のちに意欲のある将軍が側用人などを活用するのは、また別の話です)。
そうした仕組み上、政治は小さな禄高の譜代大名だけでまわしていくことが肝要だということです。

余談ですが、親藩すなわち将軍の男系子孫が政権を担当した例は、いくつかは、あります。
保科正之はどうなんだ、と言われそうだが、彼は保科家に養子に行った時点で徳川の人間ではない、ってことで執政となった、いわば特例。のちに松平を与えられて御家門に列したが、正之は終生、保科を名乗り続けた。
松平定信は、吉宗の孫だけれど、田安家から白河松平家(親藩ではなく譜代)に養子に行ったので、この時点で将軍継承権を喪失している。だから老中になれた。
幕末の、一橋慶喜(将軍後見職)、越前松平春嶽(政治総裁職)、会津松平容保(京都守護職)は、幕府が末期状態で親藩も動員しなければならなくなった、ということで、これも例です。

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