記号とコードと顔文字 | 小人閑居

記号とコードと顔文字

inu

↑張子の犬


この張子の犬をヨーロッパ人に見せると、ほぼ例外なく、


「これは猫だ」


という。確かに、よく見てみると、三角形の耳といい、ひげといい、くるくるの大きな目といい、猫としか思えない。


でも、日本人に聞くと、ほぼ確実に


「これは犬だ」


という。猫だと言おうものならば、物を知らない奴と笑われるのが落ちだ。


実はこれは犬でも猫でもない単なる人形に過ぎないのに。でも、わたしたちはそれを見て、犬だ、いや猫だ、という。誰も、これは人形ですね、といわない。


これは、わたしたちがこういったものは実際に存在しているものの

representationだと合意しているからだ。


Representationは辞書では「表現」と訳されているけど、実存するあるもの(記号内容、またはシニフィエ)をまったく違う別のもの(記号表現、またはシニフィアン)で表すことだ。たとえば、張子の犬と、本物の犬の関係。証明写真と本人の関係。言葉と、そこで示されているものとの関係。二人の関係と、恋という言葉。


しかも、この関係は文化によってコードが違っている。だから、たとえば、アボリジニーの描く点々の絵は、わたしたちには面白い抽象画に見えるけれど、アボリジニーにとってはわたしたちが「現実的」と思う絵のほうが抽象的になるわけだ。


要するに、なにを持って現実的とするか、すらも文化のコードで決まってくるわけであり、わたしたちの「現実的」が世界中どこに行っても通用するわけではない。


文化のコードとは、記号内容と記号表現を結びつける暗号解読表のようなものだと思えばいい。


また、その記号で構成された情報を読み取るのも、その文化のコードを知らなければ無理だ。


ちなみに、ブログを始めた当初、非常に困ったのが顔文字。何のことかわからない。何かの略称かと思って、必死で考えた。もしかしたら、数式かも、もしかしたら、もしかしたら・・・。ちなみに、今でもどう見ればいいのか分からない顔文字がたくさんある。


要するに、顔文字とは「漫画」という文化を持つ日本特有の表現であり、それを理解するためには、顔文字を使う文化のコードをしらなければいけないわけだ。


この、記号表現で一番身近なもののうちのひとつが言語。この言語のコードの集大成が辞書と文法書、といってもいいと思う。ただ、記号の関係はもう少し複雑で、辞書だけでその文化のコードはもちろんカバーしきれていない。


辞書も持たずに文法も知らず、自分の知らない言語を話す人と会話をしようとしても、無理だろう。でも、そのうち、お互いに、身振り、手振りで何とか意思の疎通を図ろうとしだす。試行錯誤を重ねているうちに、自分たちの間における記号のコードが成立する。こうして、いつかは必ずコミュニケーションは成立する。


たとえば、子供は、いつかは親のコードを理解して、親も子供のコードを理解して、そのうちコミュニケーションが潤滑に行くようになる。反抗期とかは、親のコードと子供のコードの相克かもしれない、と思う。

もちろん、コミュニケーションがいつまでたってもまったく成立しないこともあるけれど。


それ以上に、同じコードを使っているつもりでも、まったく違うコードを使っていて、記号表現がたまたま同じだから、記号内容も同じだと思ってしまって、果てしなくすれ違い続ける関係もある。


そういう関係は、疲れるな、と思う。



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適当に読み飛ばしてください。ええ、ええ、そうです。現実逃避してるんですよ。こういう役に立たないことを考えて。しかも、ここで書いている記号論の説明は間違ってるって激しく批判されてんですよ。ね、ソシュール先生!! うぎゃー。