ラジ・リ監督、ダミアン・ボナール、アレクシス・マネンティ、ジェブリル・ゾンガ、イッサ・ペリカ、アル=ハサン・リ、スティーヴ・ティアンチューほか出演の『レ・ミゼラブル』。2019年作品。

 

第72回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞。

 

第92回アカデミー賞国際長編映画賞ノミネート。

 

パリ郊外のモンフェルメイユ。地方出身のステファン(ダミアン・ボナール)は犯罪防止班に新しく加わることになり、早速先輩警官のクリス(アレクシス・マネンティ)とグワダ(ジェブリル・ゾンガ)とともに巡回するが、この地域の秩序はいくつもの派閥による緊張関係で成り立っていた。やがて地元の少年イッサ(イッサ・ペリカ)がロマのサーカス団からライオンの子どもを盗んだことがきっかけで、一触即発の事態となっていく。

 

ネタバレがありますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

 

映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いて興味を持っていました。

 

この映画は3月に劇場で鑑賞しました。

 

ミュージカル映画化もされたヴィクトル・ユゴーの同名小説の舞台となる町でさまざまな肌の色や宗教、ルーツを持つ人々がそれぞれにコミュニティを作って暮らしているが、貧しさから教育が行き届かず差別や互いに諍いもあり、住民の中で不満が鬱積している。

 

ここで描かれる“町”は、世界中のそれを象徴してもいる。甘くない世界。

 

 

 

 

それでもこの映画を観て僕が落ち込まなかったのは、暗さよりも子どもたちのヴァイタリティの方を「希望」のような形で描いてみせたからじゃないだろうか。

 

いや、最後まで観てもわかりやすい希望など提示されはしないのだけれども、クライマックスの少年たちの暴動に僕は映画ならではのカタルシスを得たのです。

 

明らかにラジ・リ監督は、あそこで暴力を解放感溢れる雰囲気で撮ってるし。

 

以前書いた寸評でも、「過激な『ぼくらの七日間戦争』」と表現したんですが、別にふざけてるわけじゃなくて、ほんとにそんな感じだったから。少なくとも映画の中では少年たちの標的は大人たち(ほぼ男)に限られているし。『ぼくらの七日間戦争』の相手は教師たちだけど、こちらは警官や地域を仕切ってるオヤジどもとか麻薬の売人。少年たちにとっては彼らを抑圧したり暴力を振るってくる大人たちはみんな“敵”なのだ。

 

 

 

 

ある程度社会で生きていれば、大人=悪、子ども=善、などという単純なものではないとわかる。

 

この映画では最後にユゴーの「レ・ミゼラブル」から「世の中には悪い草も悪い人間もいない。ただ育てるものが悪いだけなのだ」という言葉が引用されているけれど、僕は必ずしもそうは思わない。生まれながらの「毒麦」は存在する。

 

誰が「生まれながらの毒麦」なのかはわからないし、そういう表現は差別に繋がりかねないからこれ以上触れませんが。

 

イッサたちの悪ガキぶりはけっして「正しい」とは言えないし、ではイッサの血の繋がらない養父たちは「悪」なのか、といったら、そういうふうには描かれていない。しょっちゅう万引きを繰り返す息子に手を焼く養父には同情すら覚える。自分があの親だったら、同じようにお手上げ状態になるんじゃないかと思う。

 

ただ、教育がとても重要であることに異論はないし、育てるものが悪いために歪んでいくものが出てくることは確かだろう。

 

イッサは出身地であるアフリカの親戚と会っても、そこが自分の故郷だという実感が持てず、かといって現在住んでいるフランスでの社会的地位も高くないので、その寄る辺なさから万引きに走っているのだとも考えられる。お腹が空いていてもお金がないので、屋台で買い食いもできない。

 

まわりは同じアフリカ系ばかりなので、彼が肌の色で差別されているのかどうかはよくわからないけれど、暴力的な大人たちを間近で見続けていればその影響も受けるだろうし、学校で学ぶ機会もないのかもしれない。それよりも、親身になってくれる大人が近くにいなければ子どもは不安なのだ。だから荒れる。あるいは問題行動を起こす。

 

僕が昔住んでいたところにはヤンキーが結構いて(まぁ、地方ではよくある光景ですが)、彼らの多くはおそらく家庭になにがしかの問題を抱えていた。同じ集合団地に住んでいて幼い頃はたまに遊んでいた女の子も、中学あたりで親が離婚してからはヤンキーたちと付き合うようになった。

 

その子の母親と僕の母親が友人同士だったので母から事情を聞いていたし、その女の子自身は根はいい子なのは知ってたんだけど、その後会っていない。今は結婚もして真面目に生活しているようだけど。

 

彼らヤンキーだとか荒れてる奴らというのは総じて情緒不安定なところがあって、機嫌がよかったと思ったら次の瞬間にはキレて因縁つけてくるような(それも個人差があったが)面倒くささがあるので僕はなるべくかかわり合わないようにしていたんだけど、部活動をやってたこともあってよくカラまれた。顔見知りの上級生のヤンキーがコンビニの前でシンナー吸いながら僕の名前を読んで「金貸してー」と声かけてきて、笑顔で言い訳しながらそそくさと逃げたことも。

 

同学年のヤンキーに目をつけられて、中学を卒業するまでことあるごとに嫌がらせされ続けたりもした。幸いカツアゲされたことは一度もありませんが。

 

人のことをただの憂さ晴らしのための道具のようにしか考えていない人間のクズはいる。

 

だから、そいつがたとえどんな劣悪な環境で生きていようが、人に暴力を振るったり脅して金を巻き上げるような輩に同情などまったく覚えない。今頃どこかでくたばってくれてたら嬉しい。

 

いつも群れているイッサたちには、僕が少年期に出会った同世代の“不良”たちを思わせるところがある。「逆ギレするクソガキが好きになれない」というような感想を書かれていたかたがいらっしゃったけれど、その気持ちもわかる。特にクライマックスのあの暴動はさすがにやり過ぎだとは思うし。

 

それでも、彼らは別に誰かを苛めて楽しんでいるわけでもなくて、普段はただバスケやサッカーなどに興じているだけの無邪気な少年たちだし、イッサの逆ギレは警官の一人にゴム弾で怪我をさせられたりロマたちに盗みの罰で無理やりライオンの檻に入れられて辱められたことに対する怒りからくるものだから、あれぐらいの年頃の少年の浅はかさとしては理解はできるんですよね。

 

僕も小学生の時に担任の女性教師にしょっちゅうビンタされまくってて、それは僕が原因ではあるんですが、それでもいまだに許せないもの。あ、僕は中学生じゃなくて、もうイイ年の中年ですが。

 

イッサもけっして問題がないわけじゃないんだけど、それよりもやはり彼のような少年たちの模範となるべき大人たちにこそ問題の根があるのは明らかで、モスクにイッサたちを誘うイスラム教のコミュニティの男性たちに対してイッサが関心なさげなのは、宗教が自分を救ってくれたり自分の居場所になってくれるとは思えないからだろうし、「市長」などと名乗って周辺をまるで自分のシマのようにでも考えているみたいに振る舞う男(スティーヴ・ティアンチュー)だとか、堂々と麻薬を売ってる男たちとか、横暴な警官たちと同様ろくな大人がいない。

 

同じ団地に住んでいるやはりアフリカ系の少年バズ(アル=ハサン・リ)は眼鏡小僧でドローンで女の子の部屋を隠し撮りしてるようなヤバい奴(´・ω・`)なんだけど、そのことがバレて女の子たちに囲まれて問い詰められる場面が妙にリアルでちょっと可笑しかった。

 

女の子たちって、ああいうふうにタッグを組んで男を追及するもんね。そんで、弱みを握ってちゃっかり利用しようとする。ああいう子たち、絶対敵に回したくない(;^_^A

 

しかし、偶然バズがそのドローンで、警官たちがイッサを取り囲んで、その中の一人が逃げようとするイッサに暴徒鎮圧用のゴム弾を撃った様子を撮影してしまう。

 

その映像が拡散されれば現場に居合わせたステファンとクリス、そしてゴム弾をイッサに当てたグワダの3人の警察官がクビになるだけではなく、暴動に発展する危険がある。

 

実際に2005年に警察に追われた少年2人の事故死がきっかけでフランス中に広がった暴動の話も出てくる。

 

イッサがクリスら犯罪防止班に追われたのは彼がライオンの子どもをロマたちから盗んだからで、すべての原因はイッサにあるわけだけど、ではなぜイッサはライオンの赤ちゃんを盗んだりしたのだろう。

 

サーカスで芸をするために飼われているライオンはロマの人々の家族であり、また財産でもあるのだから、それを盗むのは彼らの生活の糧を奪うことにもなるし、悪戯では済まない。

 

事実、尋常ではない怒り方で「市長」のもとに怒鳴り込んできたロマの男たちは皆屈強で、犯人を見つけたらぶち殺さんばかりに半狂乱になってライオンの返還を求める。

 

ロマの人々がみんなあんな乱暴者たちばかりなのかどうかは知る由もないけど、彼ら自身が差別される立場だから(今回のコロナ禍でも彼らの車が放火されたというニュースがあったし)、自分たちの身を守るためにあのような攻撃的な態度を取るんでしょう。

 

この映画では、警察官たちに連れられてきたイッサをライオンの間近に立たせて小便をちびらせるロマも、麻薬の売人たちも、あるいは「市長」たちも完全な“悪人”としては描いていなくて、彼らは生身の人間っぽさを持ち合わせているし、いなくなったライオンを捜したりそのことが原因で起こりそうな派閥同士の衝突をなんとか食い止めるためにそれぞれが奔走する。

 

観ていてうんざりしないのは、彼らは彼らなりに最善を尽くそうとする姿が描かれているから。

 

けっして褒められたことをしていない者たちでも、家に帰れば家族がいたり、自分の行ないに涙を流したりもする。それぞれが背負っているものがある。

 

だから最後にブチギレて仲間たちと一緒にそんな大人たちを相手に暴れまくるイッサの姿には呆気に取られるし、それは「悪い大人たちを退治する少年たち」などといった単純なものではないからこそ、やりきれない気持ちが残る。

 

それでも、僕はこの映画の後味は悪くなかったです。

 

人が死ぬ描写はないし、少年たちの暴動はこの世の中すべてへの苛立ちをあのような形で表現しているように思えたから。

 

教師に向かって暴力を振るう生徒は教師に甘えているのだし、SOSを発してもいる。イッサたちも同じだろう。社会への怒りが具体的な暴力となって近くの大人たちに向けられる。

 

現実にはあんな破壊行為は許されないし、仲間同士でつるんで悪さするヤンキーのことが嫌いなのと同様に僕は暴力やテロは憎むべきものだと思っている。

 

だけど、時に「映画」の中で描かれるカオスや破壊は観客である僕たちに浄化作用をもたらす。

 

ラジ・リ監督は意図的にそういう役割をあの少年たちの暴動に与えていたと思う。

 

イッサがライオンを盗んだ理由は語られないし、特に深い意味もないただの悪戯のつもりだったのかもしれないけれど、僕はイッサはライオンの赤ちゃんを自分のことのように感じて、囚われの身から解放してやろうとしたんじゃないかと思ったんですよね。まぁ、頭が悪過ぎる行動だとは思いますが。

 

だけど、何かを衝動的にやってしまうって、10代の頃にはあった。

 

あの暴れる少年たちは、まるで獅子の子のようだった。大人のライオンのように殺し合いはしない。でもその小さな身体には熱を宿している。

 

町山さんは、映画の冒頭でフランスのサッカーチームのワールドカップの優勝に湧くイッサたちの姿に、肌の色とか親や先祖の出身地とかも関係がない、みんなが同じチームを応援してその勝利をともに祝うことにラジ・リ監督は希望を見出しているのではないか、というようなことを仰っていて、それは僕にもよくわかりながらも、でも同じチームだとか集団で固まれば、それはいずれは「別のチーム」との争いを引き起こす原因ともなるわけで、僕は個人的にスポーツをやることにもスポーツ観戦にもまったく興味がないこともあって、イッサたちのような元気が有り余ってて時に“やんちゃ”(嫌いな言葉だが)もしちゃうような男子よりも、一人でドローン飛ばしてるバズの方にちょっと肩入れしたくなったかな。盗撮は犯罪ですが。

 

ステファンは犯罪防止班を離れることにして、彼がクリスたちとモンフェルメイユで過ごした時間を「最悪の二日間」と表現する。

 

けれども、そんな疲れた大人たちの姿を吹き飛ばすような少年たちのあの狂乱に、僕はどこか“祭り”を見るような興奮も感じたのでした。

 

 

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『ぼくの名前はズッキーニ』

『悪なき殺人』

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