判例時報2397号で紹介された事例です(東京高裁平成30年7月18日判決)。
本件は,重症下肢虚血により入院した遺言者(大正生まれ)が入院中に民法776条の危急時遺言を行い(証人は弁護士,主治医,遠縁の親戚の3名 遺言者は遺言時から約4か月後に死亡),その後家庭裁判所の確認審判(民法876条4項)を経たというものですが,全遺産を長女に相続させるというものであったことから,長男から遺言無効の確認請求がされたというものです。
危急時遺言というのはあまり聞きなれないものですが,例外的に認められているもので,死亡の危機に迫った病者が証人3名を集めて枕頭で遺言内容を口頭で述べ(口授),さらに遺言から20日以内に家裁の確認審判を申立てて確認を得て(確認審判自体はその期間内でなくてもよい。本件でも確認審判がされたのは遺言者の死亡後),初めて遺言としての効力が発生するというものです。もっとも,家裁の確認審判を経ているといっても,最終的な有効無効の決着は訴訟によって付けられることになります。
(死亡の危急に迫った者の遺言)
民法第976条 疾病その他の事由によって死亡の危急に迫った者が遺言をしようとするときは、証人三人以上の立会いをもって、その一人に遺言の趣旨を口授して、これをすることができる。この場合においては、その口授を受けた者が、これを筆記して、遺言者及び他の証人に読み聞かせ、又は閲覧させ、各証人がその筆記の正確なことを承認した後、これに署名し、印を押さなければならない。
2 口がきけない者が前項の規定により遺言をする場合には、遺言者は、証人の前で、遺言の趣旨を通訳人の通訳により申述して、同項の口授に代えなければならない。
3 第一項後段の遺言者又は他の証人が耳が聞こえない者である場合には、遺言の趣旨の口授又は申述を受けた者は、同項後段に規定する筆記した内容を通訳人の通訳によりその遺言者又は他の証人に伝えて、同項後段の読み聞かせに代えることができる。
4 前三項の規定によりした遺言は、遺言の日から二十日以内に、証人の一人又は利害関係人から家庭裁判所に請求してその確認を得なければ、その効力を生じない。
5 家庭裁判所は、前項の遺言が遺言者の真意に出たものであるとの心証を得なければ、これを確認することができない。
本件の経緯は概要次のようなものでした。
・遺言者は入院後意識障害が見られるようになり,首を振ってのはい・いいえの動作や開眼すらできない状態に陥ったようで(遺言の約3か月前),その後,開眼や首を振ってのはい・いいえの動作はできるようになったが,意識状態は低いままで,遺言の約2か月前のカルテでは「書くことが困難」「会話の理解が困難」「しぐさの理解が困難」「読むことが困難」とされた。
・遺言の約12日前に,長女が懇意にしていた弁護士Aに相談し,危急時遺言をすることになり,その弁護士Aの下で弁護修習をしていた別の弁護士B,遠縁の親戚,主治医に証人を依頼することになった。
・A弁護士の事務所で打ち合わせた際,長女は,銭湯をしていた遺言者が長年住み込みで雇用していた甲の面倒をみてやってほしいという趣旨のことを遺言者から言われたことがあると述べたが,昔の記憶の正確性の保証はなく,遺言者が遺言を作りたいといっていたということも記憶はなかった。
・遺言作成前後の遺言者の意識は正常なレベルには戻っておらず,公証人に出張してもらっても遺言の作成依頼を断られかねないレベルであった。
・遺言作成の前日,カルテには「JCS10 発語あり 従命(問いかけに対する反応)なし」「名前を呼びかけるとうなずく」「JCS3」JCS3などと記載がされている。
・遺言作成の当日のカルテ「JCS3」「呼びかけに軽くうなずく」
・主治医が対応可能になったと述べ,遺言作成を開始し,B弁護士が「お風呂屋はだれにあげるの」「奥さんですか」と聞くと遺言者は首を横に振り,「長女さんですか」と聞くと首を縦に振った。B弁護士には長女の名前を言ったように聞こえたので主治医に確認すると肯定した。「長男にはあげないの」と聞くと首を縦に振った。「お風呂屋はだれにやってもらいたいの」と聞くと「甲ちゃん」と述べ,主治医に確認すると肯定した。(基本的にB弁護士の質問はすべて誘導的なもので「・・・・ですね?」という問いに対し遺言者が首を縦に振る,横に振るというものであったということのようです)
・家庭裁判所の確認審判の申立後,家裁の調査官が,まだ存命中であった遺言者のもとを訪ねたが,遺言者の発声は弱く聞き取れなかったので,遺言の内容を読み上げて「本当の気持ちと理解してよろしいんですね」と確認すると,遺言者が首を縦に振った。
上記のような経緯のもと,一審は遺言能力を肯定しましたが,控訴審判決は遺言能力を否定しています。根拠としては次のようなものです。
・遺言者が開眼やはい・いいえを表現できる状態に改善していたとはいえ,意識障害が大きく改善したわけではなく,意識清明には程遠かった。
・カルテに記載されているJCSは,昏睡状態などにある患者の意識状態を医療従事者間相互で客観的に伝達することができないことから,客観性のある物差しとして開発された意識障害の深度(意識障害レベルJCS)の分類であり,JCS3は覚醒しているが自分の名前や生年月日が言えない状態,JCS0は意識清明,JCS10は意識障害が進んだ状態で刺激を辞めると眠り込むが普通の呼びかけで一時的に覚醒する状態をしてしているところ,遺言作成当時の遺言者はJCS3又はJCS10であり,その後目を覚ましたが眠そうにしていたことを合わせ考慮すると意識障害があり遺言能力を欠いていた状態であったと推認できる。
・(証人となった主治医がによる当日の遺言者の判断能力が正常であったことを認めるとの診断書について)主治医の専門は循環器内科であり意思能力の有無の鑑別についての専門医ではないこと,遺言者の意識が回復していたことについての具体的なエピソードが述べられていないこと,JCS10などの重い状態からJCS3まで戻ったことを説明しているにすぎないことなどから,その信用性を否定する。なお,一般の医師は多数の患者の生命健康を守るべき使命を負って職務を遂行し,遺言者のみならず多数の患者の時々刻々と変動する病状の変化に臨機応変に対応しなければならないのであるから,,一部特定の患者についての遺言の証人という任務というような本務以外の負担を負わせて本務に支障が生じるリスクを発生させることは避けるべきである。
・家裁調査官による調査について,調査官は意思能力の有無の鑑別についての専門家ではなく,主治医の説明を元に報告書を作成していることから,これをもって遺言者の遺言能力があったとすることはできない。
なお,口授について次のように判断しています。
・口授は原則として,遺言者自身が具体的な自らの声で証人に対し述べなければならない。例外的に,直近の時期に遺言者から直接確認され,その確認された内容の文書を読み上げ遺言者がこれを肯定する発言をしたときは口授の要件を満たすと解しても差し支えないが,本件では,遺言の直近の時期に具体的な遺言内容が遺言者から直接確認された客観的な証拠や裏付けはなく,れ外的な口授の要件も満たさない。
なお,判決では危急時遺言について,
・本件遺言を有効とすれば,意識障害があり遺言能力を有するかどうかも分からない死亡の危急に迫った元の枕元を弁護士が訪ねて,依頼者の意向に沿った遺言内容を誘導質問的に質問して首を縦に振らせれば有効な遺言ができることになるが,そのような不正義は法の容認するところではない
・家裁による確認審判の制度は有効の可能性がわずかでもあれば確認ま審判をせざるを得ないものである一方で,法定相続人などの利害関係人に対する手続き保証がないので,確認審判がされたことをもって有効性を認める事情として重視するのは不相当である。
と述べています。