どれだけ【おや】というだけで 

子どもに【じぶん基準】を押し付け続けてしまっていたのかなぁ 
 
 
はっとして 
立ち止まって 
考えるきっかけをくれるのは
いつも目の前にいる 
子どもたちだ
 
 
今週
泣いて泣いて
目をパンパンに腫らす日が二日もあった。 
 
 
泣くほどの気持ちを
味わわせてもらったおかげで
心底
【おや】ってだけで 
自分がいかに傲慢になっていたかを
嫌と言うほど感じた二日だった。 
 
  
身体とともに 
心が成長していくと 
親の“あたり前”は当たり前じゃないと 
先に子どもが気付いて 
反抗するのかもしれない。
 
 
クソババアと言われる方がマシ。 
 
 
「はい、そうですか」と 
他人行儀になったり 
会話すら出来なくなるときには 


もうわたしの声は
子どもには届かない。 


気持ちも届かない。 
 
 
そうなったとき 
どれだけ取り返しがつかないことをしたんだと 
いくら悔やんで 
土下座をしたって 
もう子どもは違う方をむくんだろう。
 
 
子どもだからといって 
みくびっちゃいけない。 
 
 
おやは 
子どもの愛に溺れて甘んじてる場合じゃない。 
 
 
子どもが 
親をトライアンドエラーで 
成長させてくれるだけの 
愛の深さを持ってることを 
忘れちゃいけない。  
 
 
親にできることは 
じゃあ何?って考えたら 
行き着いた答えは 
 
 
よそ見せんと自分のことを精一杯生きることと 
心が安心できる場所を作ること  
 
 
今思いついたのは 
それだけだったわ。  
 
 
子どもが 
トライアンドエラーをさせてくれてることを忘れないで、おやも大人になろう。


そう思う。