皆さん、こんにちは このタイトルも第4話まできました。
今回は、4日間フル出動で北へ南へと移動しましたので
もう少し増えると思いますので、最後まで読んで下さい。
今日は、軽井沢に来ています。テニスをしに来ました
冗談です 軽井沢と言えば今の天皇陛下がテニスを
したことで有名ですが、もっと昔の有名を見に来ました。
眼下にに見えるのが旧軽井沢駅のホームですね
廃線となってしまった鉄路の先が碓氷峠 横川
となります、今回はそんな古の鉄道マンの知恵と
苦闘の跡を旅しようと思います。
今回は酒飲みとは違い高尚な旅なのです。
軽井沢駅からタクシーで約30分 九十九折れの旧18号線
左側に見えて来た橋梁が熊野ノ平から横川寄りの6号トンネル
と7号トンネルを結ぶ橋梁が森の中に埋もれています。
タクシーのドライバーが気を利かせて止まってくれました。
レンガ造りがチョッと見えて期待大です。
堂々のレンガ造り4連アーチ橋が目の前に現れました。
高さは31.4メートル 道路脇に立っている通常の
電信柱は約10メートルですのでそれの約3倍ですよ。
青い空 緑の森 赤いレンガ橋脚 そして黒いSLだと
更に写真的には迫力があって良かったですね。
開業は、明治28年 世界へ生産物を売る為の輸送の強化
の一環で当時群馬の養蚕 製糸業の長野の生産品の
絹糸を輸出港横浜へ輸送する手段として鉄道庁が建設
したということですが、こんな山奥に何でこの橋梁を計画した
のでしょうか?当時の鉄道マンも色々考え 勾配区間を
緩やかにするループ式(上越線の湯檜曽から越後中里)
やスイッチバック式(箱根登山鉄道)を考えたそうですが
工期、建設費等々を考慮しドイツの登山鉄道で
採用されている「アプト式」を取入れた結果谷と谷を結ぶ
強大な橋梁が必要になったそうです。
アプト式とは、線路の中央にラックレールというギザギザを
レール中央に敷き、歯車が付いた機関車がこのギザギザと
噛み合うことで急勾配を登ったり、降りたりして車輪の
空転滑りを無くし安全に運行できる仕組みなんです。
この方式を考えたがアプトさんなのでアプト式と
呼ばれているんです。今でも黒部渓谷鉄道で
見ることができますね。
碓氷第3橋梁(通称 めがね橋)をくぐり、脇には
遊歩道が整備され橋梁の上に登ることが出来ます。
遊歩道を登ると線路が敷設された跡も遊歩道に
なっておりこれは第6号トンネルの中からの撮影です。
このポーズは安中市の観光協会のボランティアの方
から教わりこのトンネル内ではストロボを使用せず
撮影するのがここっぽい撮影法と聞きやってみました。
トンネル内もやはり地元観光協会さんのご協力で
照明設備が施され観光客を迎えてくれます。
当日晩秋にも係わらず残暑で汗だくで登ってきましたが
トンネル内は涼しく気持ち良い風が流れていました。
しかし汗が止まらないのです、それは勾配のキツさで
我が機関もパワー全開状態なのです。鉄道用語では
ここの勾配は66.7パーミルという単位で1000メートル
走ると66.7メートル高低差が付くことで通常の場合は
25パーミル程度だそうですから約2.7倍の勾配を
登る計算になるのです。
このトンネルが一番の難所だったそうで、この横穴は下が旧18号線で
国道より横穴を開けて4方向からトンネルを掘った名残りだそうです。
工期に間に合せる苦肉の策だったそうです、トンネル内側もすべて
レンガを張り総数は1800万個使用したそうで当事は手作業で
相当数の作業員が従事し犠牲者の数も多数出たそんなトンネルです。
私の機関が息切れするように、当時のSLもこの勾配区間は
パワー全開と言う事で、狭いトンネル内は煤煙が充満し
SLの機関士は呼吸困難に陥り往復すると危険手当が
出たほどすごい環境だったようです。
この横穴や天井の穴はその煤煙を少しでも抜く為に空いている
そうですが、気休め程度だったでしょうね。
天井から降りている蔓は小説「クモの糸」のようで煤煙地獄から
這い上がる為の一本の糸のように見えました。
そんな思いがお上に届いたのか、明治42年鉄道を国有化し
電化に着手したそうです。
蒸気機関車を通すのでいっぱいでトンネルの高さを
とっていなかった関係から今の電車のような集電装置
パンタグラフを取付けることが不可能だったようです。
しかし諦めないのが当時の鉄道マンでした
レール脇に軌条(第3のレール)を設けそこより
集電し電化にこぎ着けたのでした、その金具の
跡がこれですがよく分かりませんね。
今の地下鉄はこの方法で集電していますね。
やっと出てきました6号トンネル、これより10号トンネルまで
まだまだありますが、先輩も私の機関もオーバーヒート状態
で危険手当を放棄してUターンとなりました。
続く・・・











