先日第32回目の3・1文化祭が開かれ、参加して来ました。
コロナ期間は中止のやむなきに至り残念でしたが、今回は韓国からのゲストも招いて完全復活しました。

              

これだけ長期間、安定した運営が出来たのは驚くべきことです。チャンゴ教室メンバーも入れ替わりがあまりなく、長続きしよります。たいてい、何かしらゴタゴタがあったりするもんやけどね。
              
その理由としては、多くのサムルノリ団体が技術主義の葛藤を抱え、入れ替わりが激しかったりしますが、チャンゴ教室(ビビムタ)はプンムル(農楽)の共同精神がよく具現されちょり、一人一人が演奏に参加できるごとよく考えられ、煉られちょります。これは素晴らしいことです。つまり、年齢や技量に差はあっても、それを巧みにカバーし合うて、一人一人が主役になられる演奏ちゅうことですね。

               

さて、今回は水原(スウォン)の生活国楽連合会というアマチュアのグループから参加、公演がありましたが、出し物の途中で着替える必要があり、主催者から衣装の着替えの間を埋める出し物はないかとの相談を受けました。唄三線で良ければと引き受けました。チャンゴ教室のSさんとの共演です。

 

曲目は、安里屋ユンタ松金ユンタそれにカチャーシー3曲(唐船どーい屋慶名クヮディーサーアッチャメー小)にしました。
                  
安里屋ユンタは良く知られた、歌詞が日本語のものではなく、本来の八重山版の唄。松金ユンタも八重山の唄で、貧乏な松金が努力して立派な家を建てたちゅう内容。この唄は日本民謡にはきわめて珍しい完全な三拍子で出来ちょります。探し求めるものが日本の中心にはなく、辺境にある例ですね。

               
 

もう一つの狙いは、アッチャメーとオッケチュとのぶっつけ本番コラボ。それぞれの舞い方が入り乱れるシーンを作り出すことでした。音楽を聞くとじっとしちょられんごとなり、踊り出す習性が沖縄と朝鮮に共通するので、それを引き出したいちゅう下心満々の取り組みでした。
                                 

チャンゴ教室の皆さんが率先して踊り出してくれたので、それにつられて韓国のゲストも踊りに合流。それぞれが邪魔し合うことなく、一つになって不思議な調和を見せてくれました。沖縄の手踊りは手首の返しがポイント、一方オッケチュは肩で拍子をとるのが特徴です。細かい違いはありますが、少し離れて見ると同じように見えるところが面白い。

 

松金(まつぃんがねー)ユンタは、亡き呉屋初美さんのサイトにありました。初美先生の実演と工工四(楽譜)が示されちょるので、10年探した宝物に出会うた気持ちで夢中で練習しました。

                 呉屋初美先生

私の唄は後で聞くと、穴があったら入りてえほど とても恥ずかしいものでした。本土の三味線と違い、三線は弾きながら琉歌の歌詞を唄うもの。沖縄民謡界では唄8に三線2 ち 言われ、唄の大事さが強調されます。歌詞がきちんと聴衆に届く唄い方をせないけん ち 反省しました。

 

このブログを書きよる途中で台湾、先島の地震、津波の情報を知りました。住民の皆さんに被害がないことを祈るばかりですが、気象庁の発表で、宮古の平良のことを「たいら」ち 読みよりました。まあ、本土の中央官庁の人間に望むのは酷かもしれんけど、宮古では「ひらら」ち 読むとされちょります。そして宮古語本来の発音では 「PwSARAサラ ち なります。
                 さら港

Hi の母音、i が中舌母音ちゅうて、 の間のあいまいな音で、東北地方の発音に似ちょります。それによると ひら が Pwサラ(サラ)になるのはほぼ理解できるのですが、何で ひらら?「ら 」が一つ多いのでは?この謎、ご存知の方ぜひ教えてください。

 

せっかくいい思い出に浸りよったに、また寂しい気持ちにさせられました。