という奇妙なページ に出くわした。

どこかで見たことのあるタイトルと思っていたら、粉川哲夫氏の本がそのままウェブページになっている。

目次とそれぞれの章へのリンクがあるだけのトップページで、管理人もなんのコメントもない。

不思議なことがあるものだ。


そもそもネットラジオに遭遇して、「自由ラジオ」で検索したら、第8章のラジオ・アートがひっかかったのだった。


法的な規制の厳しい電波を奪取するからこその自由ラジオであり、その点、もともと「自由」な(電波を使うわけではないので)インターネットラジオとすぐに結びつくわけもない内容ながら、思い当たる節の多い記述だ。


「ヴォイス――ノイズ――サイレンスへのケージの考察が、電気/電子テクノロジーのインパクトのなかで進められたことは、ケージ自身が認めているところだが、考えてみると、ハイデッガーの思考においても、そのようなテクノロジーとりわけラジオが重要なインパクトになっているような気がする。思考とは、ハイデッガーによれば、「存在の声なき声」に「同調」する「存在の声に従順なる思考」である(『形而上学とは何か』、『哲学とは何か』)。その際、ラジオは、むろん、あるがままのラジオではないし、また、ラジオが別の使われ方をした際のラジオでもないだろう。ハイデッガーにとって、ラジオは単なる思考の通路にすぎない。
しかし、ラジオから始まった思考は、それがラジオに連れもどされることによってその本来的な機能を発揮することもあるだろう。今日、メディア・テクノロジーとの関連でハイデッガーが頻繁に引用されるのは偶然ではないが、ここで、ハイデッガーを彼にとっての最も「原初的」なテクノロジーに引きもどしてとらえなおすことは決して無駄ではないと思うのだ。
ラジオアートは、こうしてラジオ・メディアをポストモダン・テクノロジーの先端部分に位置づける試みとして現代アートのホットな部分に躍り出てきたわけであるが、このことは、必ずしも、たとえばかつてポップアートがひとつの明確なテリトリーとして光り輝いたような仕方で世界のアートシーンに浮上しつつあるということを意味しない。それは、むしろ、ポリモーファスなポストモダン・テクノロジーにとって当然のあり方であり、そこでは出来事は集約や統合としてよりも、分散や無関心な同時進行の形態で進むのである。
言い換えれば、これは、事態が、ハキム・ベイが言った――無数の「一時的な自律ゾーン」(T.A.Z.=Temporal Autonomous Zone) としてのみ活気づくということであり、まさにある種の「ワールド・ワイド・ウェブ」(WWW)、世界規模の蜘蛛の巣 を放浪しつづけなければならないということである。しかし、それは、インターネットの WWWサイトをちょっと遍歴してみればわかるように、全体としての把握や論評を決して約束しない無窮の放浪、放浪のための放浪であり、可能なのは、一つの T.A.Z. へのたまたまの滞在を語ることでしかない。


とりわけTAZは、ネットラジオと小料理屋 でweblogconcent3が体験しつつあることをかろうじて概念化しうる唯一のものであるとさえ思える。


ハキム ベイ, Hakim Bey, 箕輪 裕
T.A.Z.―一時的自律ゾーン