ネグリ-ハートの例のコンビの翻訳本が出た。かれこれ数ヶ月は? 経つし、ペンギンから英語版が出ているそうなので、熱心な読者はそちらをもっと早くから読み、すでに濃い評もちらほら見かける。

だがどうも読む気がしない。読む気がしない場合の書評はどうすればいいか?

タイトルと目次だけで判断して、何かを言ってしまうか、読んだ人と議論するくらいしかないだろう。

現代思想の去年の11月号が「マルチュード」の特集を組んだ。だがこれも手元にない。

坊主は、これを読んで失敗したという。そして上下二巻本の本体を初めから読むべきだったという。

えらく賞賛するのである。希望の原理だというのだ。

そんなことがあるはずないと当方は反論する。

何がそもそも読む気にさせないかというと、「民主主義」を金科玉条のごとくにしているらしいこと。

土台、帝国時代の「戦争」という概念に並べて示すようなものではないはずだ。ここがもう、どうしようもなく、抵抗を感じさせる元凶になっている。

このサブタイトル、ハートがわざわざつけたのか、版元が演出したのか?

だいたいイタリア語で書くネグリと米国人ハートの組合せを信じられないところがある。

で、遠巻きにしつつ『民主主義とは何なのか』という新書でまず元凶をやっつけることにした。

長谷川 三千子
民主主義とは何なのか

坊主によれば、口うるさいだけの女流らしいが。溜飲下がればそれでいいのだ。

ついでに、classicとは古典を意味する前に、「階級」とか「格」とか「等級」とかを意味すると述べて、民主制の発祥とされる古代ギリシア世界は、、「理想の階級社会」、階級社会の理想型ではなかったかという記述に、久々に入ったtommy先生のブログで偶然、遭遇した。

こう来れば、あとは階級闘争である。闘争の大義名分として、民主主義の脅威とか、敵とか、相手を位置づけるために、デモクラシイという言葉は使われる。つまるところ、闘争に伴走するものでしかないという民主主義の一面が、階級を持ち出すことであからさまになる。

階級闘争はマルクスたちが作った用語である。それを巧みに回避しつつ、自陣営の戦争を正当化する概念として民主主義は存在する。

このままでは奴隷に成り下がると直観して、まなじりけっして何かを辞退するなり、刃向かうなりといった、そいう生き死にに関わる「態度」を何一つ表明しない、民主主義という言葉は。

そこが嫌なのである。

で、肝心のマルチチュード(多様体?)は、そのサブタイトルに使われた民主主義とどう関係するのか。

帝国主義戦争(いまも続いているとして)の大義名分として不可分の民主主義と言いたいのか。

プロレタリアートとか、労働者とかといった概念も実態も存在しえない時代に、それに代わるものとして多様体を持ち出しているとしたら、もう随分前に大手広告代理店が思いついた「分衆」とか「個衆」などと、いったいどこが違うのか?

どこまでも「主体」を問わずには前に進めない旧態依然の発想がこの概念を作らせているとしたら、まったくもって不毛である。

「間-主体性」からの展開を図ろうとした、広松渉の仕事を見直すほうがまだしもではないか。

(続く)



アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート, 幾島 幸子
マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義