和尚と話していて、ようやくにして光明が来た。

「資本主義」という用語の謎について。

資本主義、英語でCapitalism。マルクスの『資本論』はDas Kapitalである。

キャピタルとは、まずもって首都を意味する。

封建制が崩れ去ろうとする産業革命初期?か、農村から土地を失った、ないし捨てた人々が、都市に流入し、工場労働者となっていった。

その吸引力となったのが、当時の都市、それも「首都」であったという話。

自由主義者や社会主義者は存在するだろう。

しかし、「資本主義者」とは言わないはず。

この「主義」には教典にあたるものがない。

もっとも生命に近いものだった、ちかいもの、であるからである。

貨幣も生命論的な存在である。

「いまさらながらの青年マルクスが来ましたよ」が、和尚と交わす最近の挨拶と化している。

青年マルクスが、貨幣の哲学者、貨幣の生命科学者であったとしたら、その後の経済学者とはなんのか?

本エントリは、取り急ぎの備忘録の域を出ない。

貨幣論は怖いものである。

どこぞの神社にでもお参りしてから再開したい。いつのことになるやら。


但し? この辺の議論に関して、このところ、

「言語についての差異と反復第四章|差異と反復それでも差異と反復
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10009002005.html
が冴えている。