「はてな」から引用。

orkut 等の「ソーシャルネットワーキング 」と呼ばれるネット サービス に入れない人を入れる人がいびるという遊びらしい。

いい歳こいた大人がすることではないが、「ソーシャルネットワーキング 」自体に特に新しいネットアイデア があるわけではない。いわゆるひとつの見えない「出会い系」「サークル 活動」として使用されていることから、「orkut八分 」は昔から存在する「合コン 」「オフ」に呼ばれない人と似たようなもの、それがネット に近い存在としてヴァーチャル化されてより煽られやすくなったのではないかと推測される。

誘われた者なら「非参加者の単なる被害妄想 」だとしておきたくなるらしい(orkut 内で friend が増えない状態を指すという意見もある)。

同様なものとして「mixi 八分 」という現象も起こりつつある。」


いや恐ろしいことに実際に起きている(「はてな」氏の言うorkut内での状態の方が、八分の大半だと思われるのだが)。早々に結論しておけば、しかしそれは「社会」というものが存在しないからのことであって、「村八分」とはわけが違うのだ。だからこそ、「この程度」のことに、人は敏感になる。

そのことによって「社会」というものがそもそもない、ということにあらためて気付き、傷つくと言っていい。


「おまえ、友だちいないだろ」というプゲラは巨大掲示板の常套句の一つだが、

群れるのが嫌いなんでね」と切り返すのはあまり見たことがない。


社会的状態 と群れることは別物である。群れたくないんだよ、と言える人には、辛うじて社会が残っているとも言えるかも知れない。


「商品論」と「社会とは何か」論がほしいのに、階層論や桁落ちの階級論もどきがもてはやされる。

それは、マーケティング論の一種に成り下がっており、そこでは「友だち」とはブランドに過ぎないのである


「友だちが何人いる」ということに、なんの価値があるのか。

生涯の友が、二十人も百人もいてたまるものか。


そんなものは一人いれば十二分ではないか。