今週の直言
「教育再生は大学入試から」
全国の高校で、必修科目の履修不足が発覚した。生徒の救済策を考えるのも必要だが、なぜ、こうした問題が起こらざるを得なかったのか、根源にさかのぼって考える必要がある。
問題は、学習指導要領で必修(例えば世界史)とされながら、大学受験に必要なしとされ、確信犯的にその教科を他の受験必須科目に振り替え、あるいは、他の教科をもって当該教科を履修したと偽装していた点だ。直接的には、学校、教師、教育委員会の責任だが、彼らに、そうさせた社会的状況にも思いを致す必要がある。
「世は受験戦争」であり、基本的にはここ数十年事情は変わっていない。ここ横浜市でも、駅前の通りを数十メートル歩くたびに大小入り乱れて学習塾の看板が掲げられ、夜遅く帰宅する塾帰りの小学生の姿を見るのは日常茶飯事だ。新聞や雑誌にも一流進学校や一流大学に何人合格したかを誇る広告があふれている。「良い大学に入れて良い就職を」は、いつの時代も子を持つ親の心情であり、一概に非難されるべきではない。
いや、そうした心情は、いくら「学歴社会は終わった」「ソニーはもう随分前から入社試験に大学名の記述をなくした」「これからの世の中は学歴より手に職を持つこと」「国際社会の荒波に勝ち抜くためには知識より独創性や個性」と強調したところで、当面、ビクともしないだろう。
そうなら、大学入試自体を抜本的に改めるしかないのではないか。いくらでも理想論はあろう。教育論も百家争鳴だ。教育委員会の強化も教員免許の更新制も学校の外部評価もいいだろう。しかし、本当に教育現場を変えようというなら、現実問題として、大学入試から、高校、中学、小学校と、水が地表から地中に浸み通るように変えていくしかないのではないか。
(字数の関係で、以下、ホームページに続きます。下のリンクから続きをお読み下さい。)
続きはこちらから
http://www.eda-k.net/chokugen/277.html
ホームページ表紙はこちらから
http://www.eda-k.net/
全国の高校で、必修科目の履修不足が発覚した。生徒の救済策を考えるのも必要だが、なぜ、こうした問題が起こらざるを得なかったのか、根源にさかのぼって考える必要がある。
問題は、学習指導要領で必修(例えば世界史)とされながら、大学受験に必要なしとされ、確信犯的にその教科を他の受験必須科目に振り替え、あるいは、他の教科をもって当該教科を履修したと偽装していた点だ。直接的には、学校、教師、教育委員会の責任だが、彼らに、そうさせた社会的状況にも思いを致す必要がある。
「世は受験戦争」であり、基本的にはここ数十年事情は変わっていない。ここ横浜市でも、駅前の通りを数十メートル歩くたびに大小入り乱れて学習塾の看板が掲げられ、夜遅く帰宅する塾帰りの小学生の姿を見るのは日常茶飯事だ。新聞や雑誌にも一流進学校や一流大学に何人合格したかを誇る広告があふれている。「良い大学に入れて良い就職を」は、いつの時代も子を持つ親の心情であり、一概に非難されるべきではない。
いや、そうした心情は、いくら「学歴社会は終わった」「ソニーはもう随分前から入社試験に大学名の記述をなくした」「これからの世の中は学歴より手に職を持つこと」「国際社会の荒波に勝ち抜くためには知識より独創性や個性」と強調したところで、当面、ビクともしないだろう。
そうなら、大学入試自体を抜本的に改めるしかないのではないか。いくらでも理想論はあろう。教育論も百家争鳴だ。教育委員会の強化も教員免許の更新制も学校の外部評価もいいだろう。しかし、本当に教育現場を変えようというなら、現実問題として、大学入試から、高校、中学、小学校と、水が地表から地中に浸み通るように変えていくしかないのではないか。
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