ムーンリバーを眺めて
3月の彼女の誕生日に、多少奮発してペンダントを買った。
たまたまその時に、手持ちがあったということも、それを選んだ理由だった。
名古屋の、そこそこ名の知れたデパートの中にある宝石店で、綺麗な色のルビーを選んだ。
6万円のペンダントというのは、男友達から贈られるにしては、やや怪訝な顔をするものだろうけれど、路上販売の店で見つけた3千円くらいの安物だよ、というぼくの嘘を彼女はあっさりと信じたようだ。
そういう嘘を信じやすいのは、彼女のいいところのひとつでもある。
ありがとう、と一言だけ言って、少しだけつけて鏡を見て、すぐに外してジュエリーケースに仕舞い込んだ。
彼女がいつかもっと大人になって、本物だったんだって気づいた時にどんな顔をするのか、楽しみに思ったけれど、たぶんぼくはその様子を見たりすることはないだろう。
ぼくと彼女の間柄を、どのように表現するのが適切だったのかは今でもよく分からない。
互いに友情めいたものを感じていたし、一緒にベッドに入ったりすることもあったけれど、肉体関係はなかった。
一人暮らしを始めて間もなかった彼女の部屋に月に一度か二度訪れ、その髪を撫でながら、子守唄を歌う。
時には悩みを聞いたり、よく分からない不安に押しつぶされそうになっている彼女を抱きしめたりもした。
(おそらくは)互いに友情のようなものを感じていたし、親しみもあっただろうと思う。
薄暗闇の中、手を繋いで見つめ合っている時には、何かを言いたそうな目をしていたのをよく覚えている。
でも、それだけだ。
ぼくには当時、他に恋人がいたし、彼女にも彼氏らしい男がいるという話を聞いたこともあった。
それでもぼくたちは互いを、不思議なことに必要としていたのだろうと思う。
ある時、星が見たいという彼女を、長野県まで車で連れて行ったことがあった。
山の方までボロボロの車を走らせて、どこかのキャンプ場のようなところで車を停めた。
湖があって、綺麗なムーンリバーができていた。
夜空には星が騒がしいほど輝いていて、「こんなの、普通の女の子だったら恋に落ちちゃうだろうね」と彼女は言った。
「君だって、普通の女の子だろう」
「普通じゃないよ」
「自分で、そう思ってるだけさ」
「普通の女の子は、こんなことなんてしない」
「思い込みだよ。誰だって、道を踏み外す時は踏み外すものだ」
「とにかく、私はもう、普通じゃなくなったのよ」
それきり彼女は黙り込んで、空を見ていた。
ぼくはその隣で、同じように空を見上げながらタバコを吸った。
「流れ星でも、見えたらいいのに」
「何を願うの?」
「私の罪が、消えますように」
「素敵な恋ができますように、とかのほうが良いんじゃない?」
ぼくがそう言うと、流れ星が落ちた。
「できるよ。今からでも。いくらでも、素敵な恋が」
「壊してしまったものが、多すぎる」
「口にしなければ、何も起きてないのと同じさ」
その帰り道、助手席で彼女はずっと、泣いていた。
きっと、今の自分の無力さに、だろう。
彼女を性的に抱きたいとは思わなかったが、この娘が幸せになれば良いのにな、とは思った。
●
今夜は、泊まっていく?
予感を感じて、泊まらない、と答えた。
彼女は少しだけ残念そうな顔をして、助手席のドアを閉めた。
ぼくはさ、君の特別でいたいんだ。何年経っても、遠く離れても。
ぼくにとって、君がそうであるように。
手を繋いだり、見つめあったりして、お互いが特別な相手なんだってことを、知っていたいんだよ。
けれど、ぼくのそうした心情は上手く伝えられる自信はなかった。
上手くいかねぇよな、人生は、と呟く。
その言葉は、少しだけ開けたウィンドウから流れ出ていく。
●
今夜も彼女が、泣いたりしませんように。
ぼくの願いは、叶うだろうか。
●
なんていうことがもう15年も前のことで、40歳になった彼女は今、どうしていることだろう。
少なくとも今、僕を呼びつけたりはしない以上、誰か他の、適当な男ができたのだろう。
ハッピーバースデー。
君のこの日を、心から祝うよ。
例えばそう、そんな話。