
赤座氏は戦国時代、朝倉家の家臣であるというのが通説でありますが、調べてみるとイマイチわからないんです。
「一乗録」に赤座氏の名前がある事から、家臣であったようですが、今庄を領していたとは記録にありません(天正期)が、朝倉氏が滅んでからも本領安堵されているので、そこが不思議です。
赤座氏は、美濃赤座氏と越前赤座氏と少なくても二流あり、血族関係は証明されていないようです。
信長の時代の「織田武鑑」によれば、赤座七良左衛門は関東管領所属として濃州内に一万石とあります。
その後の秀吉の時代の「豊国武鑑」によれば、濃州の内、二萬石、赤座内膳正の名前があります。
それ以降の「大武鑑」からは赤座の名前はありません。
今庄に残る発給文書に、天正以前の赤座氏の名前は残っていないので、越前赤座氏は朝倉家が滅んでから今庄を領有したと考えるのが妥当かと。正確には、朝倉家が滅んで信長に越前守護代に任命された桂田長俊が、天正2年、富田長繁に攻め滅ぼされる。その富田長繁と一向一揆が争い富田が滅び本願寺に越前が支配され、翌天正3年に織田に越前一向一揆が滅ぼされた後に、この今庄を領有したのではないか?
朝倉家時代から今庄を領有していたとすると、天正2年の一向一揆により、在地勢力はほぼ駆逐されているので 、その当時は今庄にはいなかったはず。天正3年以降に今庄を領有したと思われます。
赤座直保としてごく一部の人に知られていますが、記録では、赤座吉家・久兵衛・備後守
父親は赤座直則
天正10年、本能寺の変で討死
なので、直保は天正10年に家督を相続した事になります。
赤座吉家の城は、「樋口と今庄城の両城に在城」と記録があります。
樋口とは、燧ヶ城と思われます。
燧ヶ城は木曽義仲の時代から南北朝、元亀天正と、いつの時代もこの城が大きな役割を果たしているように、重要な拠点でありました。
前回紹介した備後守館跡は、遺構が全く残っていないので何とも言えないのですが…ちょっと離れているのかなぁって…





