イスラエルの暦 神のカレンダーは永遠不変 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルでは、国全体がトラーに書かれた通りの暦、時に

沿っての生活基盤が存在しています。日本で言えば、お盆やお正月、子供の節句や記念日がありますが、イスラエルの記念日は

聖書に書かれた神が創造された記念日を祝うのです。

もちろん皆が神の言葉を理解して生きてる訳ではなく、創造主に対して興味も無い人も大勢います。でもその中で国として、

神の言葉を生きる、実践すると言う事実があるのです。

どうしてでしょう?神が地上でイスラエルと言う国、天の国を

反映し世界へ地の塩、世の光としての役割を与えた国民を

選び出したからです。福音はユダヤ人から世界へ伝えられた事実

があるのです。

 

シャバット、新月、春と秋の祭り。その他にハヌカやプリム、

そして、イスラエルの国の記念日もあります。

 

シャバットが近づけば、シャバットを迎える準備をし、街全体、国全体が止まるので、シャバットが来るのだと実体感します。

スーパーやお店も閉まりシャバットが始まるので家々の庭からは、家族や集まった人達の楽しそうな声が聞こえて来るのです。

祭りでは、仕事や学校も休みになり、1週間祭りを共に祝う、

日本で言えば、お正月の1週間の様に、お互い訪問し合い、

家族、親戚が集う、その様な時は皆がその特別な祭りを祝う事で

雰囲気が環境に表れ出ます。

 

世界の中でイスラエル以外、神の創造した記念日を国全体で祝うと言う国は1つも無いのです。バチカンも神の創造した記念日を祝わない、異邦人クリスチャンも同様に神が創造したオリジナルの記念日は祝いません。祝わなくなった理由はローマ帝国からのトラーを生きる弾圧、迫害、処刑、それを逃れるため、異邦人は別の方向へ走ったと言うのが本当の理由。神は神の教えや記念日など1つも変えてなどいない、聖書にそれが記されているのに

全く通じなくなってしまったのは、2〜4世紀、それ以降は

異邦人の世界ではずっとローマ帝国新宗教が作った違う記念日を祝う事に移行し、伝統で聖書の教えでは無い教えや、記念日が

実践される様になりそれが異邦人の世界へ完全に浸透してしまったからです。嘘だと言うならば、聖書をよくよく読み続けて、

調べ続けて、神の前に問い続けたら、聖霊が揺るがない、変わらない永遠不変の神の言葉から真実をはっきり教えて下さいます。

 

昨日は日曜日でしたが、街が活動し始める事を雰囲気で体感しました。日曜日は創造主の暦では労働の第一日目であると永遠不変の事実が神の口から出た言葉で聖書に記されています。

神が第1日〜第6日目に創造の業をして第7日目に止まった、

だから神が止まられた様に、人も第7日目に止まりなさいと

永遠の仰せが書いてあるのです。神の教え、言葉を聞いて生きるか、無視して別の教えを生きるのか、それは純粋に個人個人神の前に於ける選択なのです。自分の周りが聖書とは違う事を実践

する環境にあるので、それが聖書かなと勘違いしてしまっているだけなのです。もし周りの皆が聖書の通り第七日目に止まり、

神の伝える永遠不変の生き方を実践し、そして神の創造した記念日を祝う人達が増え続けたら、オセロの駒の様に真実が不真実をひっくり返す事が起きるでしょう。

 

日本や諸外国の月曜日は、出勤や登校をする人達が往来し、

週の最初の活動が始まったと肌で体感します。

神の暦通りを生きるイスラエルでは日曜日が、日本の月曜日と

同じなのです。異邦人の世界ではローマ帝国が作った教えや

記念日を実践しているだけなのです。

 

聖書に照らし合わせて考えると、イエシュア昇天以降、神の言葉

神の暦、時、神の創造された記念日が変更になったと言う仮説、

異邦人が創作した教えは、シンプルに明らかに非聖書的人間の教えである事は明白なのです。聖書の中のどの箇所にいつ神の言葉に対してその様な変更があったと記され、聖書に登場する1世紀の人々がトラー=モーセの五書に書かれた神の教えとは違う別の生き方や、変更された違う記念日を祝っていた記録が書かれているのでしょうか?そんな事1つも書かれてなどいません。

自分で書いてある通りに基づき調べ続ければ、誰でも神の伝える事実を見つける事が出来ます。

世界の真ん中、ど真ん中、ここを通る人達がトラーに書かれている神、イスラエルの神がどんなお方であるのか、このイスラエルと言う地を商業、ビジネスで通る時、それに気が付くため、

この世界の真ん中の地を地上での神の国を表す場所として神が

選ばれた事がトラーに書かれています。

 

申命記4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。

4:7 われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。

4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべてのトラー<神の教え、インストラクション>のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。

4:9 ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、

それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらの

ことを、あなたの子孫に知らせなければならない。

 

神が地上で神の国を表す場所を選ばれたと言うだけで、選ばれた場所やユダヤ人が特に優れているから選ばれたのでもないのです。

大家族の一家の長男は、弟妹に、同じ家訓を教える手本として

選ばれた、そしてその大家族の一番の長はイエシュアであるの

です。

 

同じ家族は同じ家訓を生きる、家の中に壁を作り、ここまでは

異邦人、ここから先はユダヤ人が入れる部屋など、同じ家族の中、同じ家の中にそんな区分けや差別も無い、自由に家の中を行き来し同じ1つの茶の間で集い、憩う、同じ神に造られた同じ人間、同じ大家族の一員であるのです。

それが神の家、神の家の中心、茶の間=リビングルームのテーブル=祭壇を囲むことでも教えられているのです。

 

イエシュアが昇天した後、イスラエルでは、又イスラエル近隣の諸外国でも使徒達、1世紀当時のユダヤ人イエシュア信者、

イエシュア信者では無い信者、少数の異邦人信者も皆同じモーセの五書に書かれた教えを生きていました。

 

今現在イスラエルに居て、日曜日はこの地では労働日であり、

異邦人の世界で考えられる日曜日礼拝などは昼間行われる事が

ありません。1世紀も同様にクリスチャン達が考えている様な、

シャバット=第七日目が第一日目、日曜日に変更された事実など全く無いのです。

聖書にだけ基づき考えれば、聖書に書いてある内容は、西洋宗教が作った教えや記念日など1つも書かれていないと言う事が正真正銘の事実なのです。

今終わりの時代は、偽物と本物を見分ける知識が必要になるのです。嘘か本当か、神は仕分けをしている。人が神の言葉に基づき

真実を見出すか、伝統で浸透した人の教えに流され続けて行く、それが真実だと騙されて行くのかの違いがあるだけです。

人が編み出した伝統の教えや、記念日が聖書に書かれている神の

教えとは異なると言うシンプルな事実があるだけです。

 

様々な解説があります。以下全て聖書の教えとは全く異なる人が

創作した教えです。下矢印

 

1 昇天以降は、神の教えが終了したので、それぞれ個人個人が

考える生き方、記念日を生きる自由が与えられたので、古い教え=神の教えにこだわる必要などない。

2 古い教えを生きることは律法主義で、恵みを無駄にした生き方に戻る事である。

3 シャバット=第七日目は変更はない。日曜礼拝も聖書の事実ではない、でもそれぞれが好きな日に記念日を設定して良い自由が昇天以降人には与えられている。

4 福音書以降には新しい教え、新しい礼拝日、新しい記念日が

書かれている。1世紀のイエシュア信者は日曜礼拝をし、

クリスマスイースターを祝っていた。

 

などなど数え切れないほど多くの非聖書的な教えが編み出され続け、伝統で語り継がれて実践されていますが、それらは聖書とは何の関係もないものです。

 

神がイスラエルと言う国民を選び出し、同じ1つの家族に世界の全ての民族が加えられると言われた理由は、神の教えとは異なる様々にズレた教えが編み出されない様に、神が伝えた事をガードして生きる責任を1つの国民の上に課したからです。どんな民族の生まれでも、神の国の大家族に加えられたら、その人は同じ

イスラエルの神の家族のメンバーであり、同じ契約の中に加えられた事になるのです。神との関係は神が提示した契約の詳細無しに成り立たないものなのです。

これは、人がいくら否定しても、神が伝えている永遠不変の事実ですから、人が神の言葉を拒否しても、神の言葉は消される、

キャンセルされるものではないのです。

 

宗教の霊とは、イスラエルの神から出るものではないのです。

 

神の言葉通りを信じて生きるのか、人の教えが混ざった宗教を

生きるのか?そして、神の言葉に人の教えを混ぜると、神に造られた人のエッセンス=要素とは異なる生き方になってしまうのです。

人の教え〜それらの中身、教えは本物の自分の性質、生き方ではないから、それは生きない、神の言葉で伝えられる人とは、神にどの様な性質に造られ、どの様に生きるのか?神の言葉で伝えられる教えが正真正銘の本物の性質、生き方、それらが本物の自分なのでそれを生きる。シンプルで明白な事実が聖書には書かれているのです。する、しない掟リストでは無い、これこれはあなた

ではありません、だからそれをしないのです。これこれはあなた

ですから、あなたはこの様に生きるのですと言う至極シンプル

明かな事実を神が人に伝えているのです。

それはどんな事に対しても、寝ても起きても、何をしていても

もし神が創造されたエッセンス、神に造られた自分を生きるなら

それらの生き方の全ては神の前の礼拝=アヴォダであると言う事が書かれています。

世間の基準、伝統の教え、人が作り出した宗教の教えや伝統の

実践、記念日、それらは神の教えではないなら、それはイスラエルの神から出たものではないと言う至極シンプルな事実があります。神が言ってもいないことを、言った言ったと何千回、1900年近く主張し続けてもそれは永遠に神の前には不真実であり、又神の言葉ではないのです。でも宗教文化の中で、又はこの世の価値やシステムとは異なる考えや行動をする事に対して、抵抗があるものです。

周りの皆が当然のごとくにやっているからです。

これこそが同調圧力と言うものでしょう。皆が実践する事とは

異なる事をしたら、それが神の言葉の真実でも異物に見なされるからです。

自分の性質、神に造られた性質ではない生き方を強いられたら

神に造られた自分は否定され、死んでしまうのです。

なかなか難しい課題でもあります。

 

大事な事を発見して、この世の教えに騙されないで、本当の命を生きる、狭き門とは色々な意味で語られている内容でもあるの

です。

 

続く