聖書にはトラー=モーセの五書の内容しか書いてない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

同じ親=創造主から、創造主=神の言葉により造られた人は

”アダム”と言う一人の人から皆出てきた。

同じ要素=アダマ=土から造られて、神の性質、そっくりに

似せて創造された人間は、そして神の息=霊を神から直接吹き入れられて初めて生きるものとして"稼働"したと書かれています。

 

神により”ライヴ”生きるもの、稼働、機能するものとして

現れ出た人。

その一人の人=アダムの中には”同じ要素”の人=エヴァ=ハワが

居て、アダムの内側に存在していて、アダムの中からアダムの

”エッセンスそのもの”〜骨を取り出し、そしてハワの存在の中に入れて<とヘブライ語では書かれている>、ハワが出現した。

そしてそのハワはアダムの目の前、顔と顔を合わせて合間見える場所に初めて連れて来られた下りが聖書で説明されています。

 

神ご自身が神の息=霊を神の似姿そっくりに創造した

アダムの中に吹き入れたシーン、神の移動式神殿=宮に神ご自身が天から”神”ご自身の”火”を投下したシーンとタブって

重なり見えると思います。神が主導権を握りイニシアチブを

取って全てが始まった。

 

目に見えない世界と目に見える世界、神の創造物で表される

なにがしかの性質は、神の見えない世界=言ってみれば

霊的な側面の性質とぴったりマッチしている事実に、

注意深く世界の創造物、物事、神の教えている内容を探り、

観察すれば気が付けます。

 

地上で神が神の定められた場所が、天の国の現実=

地上のイスラエル=神の国の都=エルサレムに於いて

表されています。

物理的に目に見えるものは天の現実をそっくりそのままを

映し出す”影”です。聖書で表されている影とは本物と比べて劣る

性質のものと誤解されていますが、そうではなく、天の目に見えない世界の現実を地上で五感を通して実際に体感し学習出来るものとして、本体とぴったり同じ性質であると言う意味の影なのです。本体が無ければ影もないでしょう?

本体が存在するからその本体を映し出す影が表れ出るのです。

 

この箇所、”ヘブル書8:13”で誤解されている箇所にも繋がるものなのです。これはパウロの書簡=聖書を誤解して解説されているシリーズで書きます。しかも13節に”トラー”律法などと

言う言葉は原典には書かれていないものです。

ここは神のトラー=教えの話をしているのではないからです。

 

トラー=神の教え婚姻契約は永遠不滅=もし婚姻契約が破棄、

又は無効と変わるなら誰一人神との関係を持ち、保証されている証拠がない!と言う事を主張している、聖書では無い教えを

唱えている事実に、聖書に書かれた本当の真実だけに基づき

考えてみて下さい。

 

1つの国民を選び出し、一つの場所を選び、そこが神の臨在が

あり天nの現実があり、神のエッセンスを生きる人が

世界へ伝える代表として国民全体で生きるその場所を

神が選んで聖別したのです。

 

聖書には、”時”に対する聖別と、”場所”に対する聖別が書かれています。時=神の定めの時と、そして場所=国、神の宮、

そして神の命エッセンスを生きる人の中も同じ場所です。

だからクリスチャンも”神の宮”と自分の事を聖書を根拠に

言うのではないのでしょうか?

神が人に解説する聖別の意味はモーセの五書に定義されて

いるのです。この聖別とはの神が解説する意味を知らなければ

本当の意味での聖別とは何か、

どう生きるのかも分からなくなるのです。

 

エルサレムが中心とは、国の重要機関が全部集結している場所。

全世界の中で”神の国”を表すその中心に神の家があるのは

当然で、エルサレムを神が神の国を表す地上での場所として

選んだ事実が聖書には書かれている。

だからこの場所を徹底的に潰そうと世界が躍起になっている

理由が見えてくると思います。

 

神の創造、神の性質、神のデザインを帳消しにしたい力が

あるからです。

 

神の言葉=教えをどうして学ばないとならないのか?

神の教えている通りを知り、その実態を生きるため!

勝手な自分思想の生き方に留まりずれないため。

どうして?安全に命が保護され、そしてシャロームの状態が

神の中に生きる人々には一番の幸せ、喜び、平和であるから。

他者を破壊しないためetc etc 

 

正しい情報=神の言葉を正しく知らなくてはならない訳は、

神の言葉=思索=真実に基づく閃き、理解が神の言葉から

与えられ、神からの啓示=言葉の意味する通りの内容が自分自身に明かされて理解し、理解したらそれを神の意図する通りに

生きることができるため。神の言葉=神=イエシュア=

イエシュアの足跡を生きる。神が造られたオリジナルの

デザインの本物の人間の姿を生きる事だから。

実にシンプルな事実です。

それを逆してみたら分かると思います。

 

不正確、不真実な神の言葉の情報=オリジナル聖書に記された

神の教え、言葉とは違うずれた教え、情報。

それらは人間が作り出した教えで、神の言葉を否定し、今はもう恵の時代になったから神の言葉を生きるのは終わりとし、

神の言葉を知ることも、取り扱いもないがしろにし、破棄し、

今は生きる必要の無い律法=神の古い言葉と教える教えそのものなのです。この人造の教えのせいで、旧約聖書=忌み嫌うものと

無意識に反応し、神の言葉を否定する事が正義!イエシュアが

された神の律法を破壊した業!と言う意識を植え込まれ、

”律法に戻る気か?”と言う非聖書的なフレーズを

何度も聞かされ混乱していました。これ聖書とは全然関係ない

神の語る教えの真実とは似ても似つかない別の福音です。

 

神の言葉とは異なる正しくない情報を聴き入れば迷路、

ドツボにはまり宗教と言う人の作った教えの縄目に縛られてしまうからです。これは出エジプトして元来た方向へ引き戻され、

”自由への口”と言う場所と、”北の神”目に見えない神々〜

偽の教えを意味する場所に、紅海を通る前に宿営させられた

意味でもあります。

 

贖われたのに、再び奴隷=偽の神々の教えの奴隷になって

しまう事に注意!と教えている絵画的教えでもあるのです。

 

神の言葉=教え=真理は人に本物の自由=罪に束縛されない

本物の自由を与え、自由は神の真理、義に生きる本当の解放を

与えると神が人に伝えている、イエシュアの口からも同じ事が

語られているのです。クリスチャンの世界で教えられる教えは

なんでも許されるなんでもする自由が与えられたと教えます。

その教えは聖書の語る自由の意味を全く誤解して解説しています。神の教え無視して、自分の判断基準でなんでもして良い

自由なんて聖書にどの箇所にも一度も登場などしていません。

モーセの五書を終わらせた教え架空の教え=聖書のどこにも

書いてない教えを生きる!と教えられてしまっているのです。

 

神の言葉、思索、真実に基づかない曲解された聖書の解釈による解説は、神から人類に掲示されている言葉=神の意図する通りに自分に伝わり解き明かされないままに留まり、神の実態=

エッセンス=本物の自分=神の似姿で生きる人生を歩めない

フルに歩めない事でもあるのです。

 

そして多くのクリスチャンに誤解されている事、

神の言葉は永遠不変と神が言われている事実をその通りには

信じない様に教えられてしまっているので、最初の部分を

古い書=旧約聖書=と言う人間が勝手に付け加えた

タイトルで現代では終わりの教えと捉えてしまって、

聖書を二つの箇所に分断している事。

 

第二には、最初の部分と最後の部分とでは違う別の教え、

別の福音が記されていると誤解している事。

それゆえに、福音書以降で、イエシュアが弟子が、パウロが

語っている内容が100%トラーのみを指して話している事実に

全く盲目なまま、別の教えを作り出し解説していると誤解している事。もしくは、モーセの五書に書かれた内容で道徳的な部分

だけを取り出して、それだけが今現在有効な教えと解説しているのかもしれませんが、本当に聖書を知らない弊害は1世紀後半から現代まで膨れ上がり、人造の教えで本物の神の教えが

かき消されてしまったのです。

 

これはユダヤ人とて同じです。同じ記事に書けない内容なので

別の記事に書いてみたい内容ですが、先週起きたガリラヤ湖での

ラグバオメル=穂を数える日=第33日目の祝い<これは聖書には

ない教えです>で、彼らユダヤ教のあるセクトの信奉する

”救い主”なる人を崇めているその祭りで子供含め45名の死者が出てしまった悲劇が起きました。下矢印

 

イスラエルのニュース ラグバオメルに起きた惨事

 

神の言葉、教えとは違う教えをユダヤ人も多く創り出し、

神の語る真実とはずれた悲しい生き方に変形されてしまって

いるのです。

これは根が深い問題なので今は取り上げませんが、誰でも

神の真理から外れればどんな教えも編出してしまうのです。

 

 

 

 

 

続く