聖書の中に出てくる預言者の記録が預言書に書かれていますが、
預言者の役割とは、トラー=モーセの五書=”婚姻契約”の生き方を正しく教え、そして神の教えから外れて生きている人たちへ
神の言葉、教え、トラーの生き方に戻れ!と警告、戻ることを
促すのが預言者の役割です。
聖書に書かれている”悔い改め”とは、イスラエルの神に戻る事であることはクリスチャンも了解している内容です。
でも、神に戻るとは、神の言葉=教え=トラーに戻ると言う意味で聖書には書かれているのですが、これは、人の教えで覆われて見えなくなっていると思います。
しかも、イエシュアが、使徒が、パウロが教えていた事は
100%トラーである事に絶対に気が付いていないと思います。
不思議でしょう。ユダヤ人が、当時の1世紀のイエシュア信者は
皆、トラーをそのまま教えられて、衣食住全ての領域をトラーに
書かれていた事を生きていた事実が書かれているのにそれが
ぼやけて、別物の解釈に変形している。同じ畑に2種の種を混ぜると、小麦と大麦の見分けが付かないと言う警告そのものです。
昇天以降別の教え、別の新しい契約が出現したと、神の言葉の中に、人間の教えと言う別の種を撒かれて教えられてしまい、
人造神学=人の教え、1700年近くの伝統となってしまった
都市伝説を土台に、イスラエルの神を信仰していると思います。
罪告白したら、その後どう生きるの?贖われ、救われた人の
生き方がトラーに書かれているのに、その詳細、内容がごっそり抜けているのです。抜けている=神の教え、インストラクションを省いているからです。
トラーには、贖われた、救われた人の成長する過程が全て書かれているのに。
福音書以降は、トラーの本当に短い抜粋しか書いてないのです。
トラーを知っている人達を前提に福音書以降が記されているから
トラーの詳細をそのまま丸ごとは復唱、リピートして書いてないのです。
罪と言うと普通の人でも分かる道徳的な罪をまず考えますね。
人を傷つける事や、無礼な行動、人としてやってはいけない
イロハは常識ある人なら分かるものです。最近ではネットで様々な情報があり、そして以前では闇で取り上げられなかった、
家庭で、会社で、学校、社会での様々な違反、バイオレーションが訴えられています。世の中病んでいる。表からでは決して見えない事情を皆抱えている。皆悩んでいる。ずれた行動をしたり、
されたら人は破壊されて行くのです。
学校では、”いじめ”などは以前から問題にされていましたが、
いじめとは呼ばない、性質、本質は同じ、パワハラ、モラハラ、セクハラ、マタハラ様々なもの。ハラとはハラスメントの
略です。
ハラスメント=嫌がらせ、不快にさせる、もっと近い意味では、相手を威嚇して、脅し、相手を自分の意図通りに操作する、
従わせると言う事でしょう。愛する、擁護する、保護する家族、
仲間、隣人を破壊におとしめる行動。これはどこでも起こり
得る。一番危険なのは、神の名を使って人を操作する事。
神のデザインされた人の生き方や、関係が破壊される行為。
モラハラなんて性格異常で話が通じない領域の問題ですね。
これも、先祖代々染み付いて来た”ズレ”の学習の結末です。
道徳的な事以外、聖書で重い罪として取り上げられているのは、
異教の神々とのシンクロ、混ぜ物、融合、統合、ミックスの罪
がずっと書かれています。
道徳と何にも関係ないですよね。異教の神々を信仰していて
礼儀正しく親切な人も大勢います。社会的に立派に生活している
犯罪にも手を染めるわけでもないし。。。どこがいけないの?
でもきっぱり創造主は言われます。
別の神々に仕えてはならないと。悪霊に繋がったら、知らない
間に、自分が嘘ものの姿に、神の性質とは違う生き方に、
汚染され、ズレていくからです。隔たりが生じる。イスラエルの神の子では無い、神の言う所の汚れを、知らない間に内側に
取り込みながら、混ざりながら、別物に変身してしまうから
ダメなのです。
しかも、天の祭司が異物、異教の神々の要素の混ぜ物を内側に
取り込んだら、地の塩、世の光、神の実態、栄光を正確に地上で映し出す鏡の役割が出来なくなります。別物、混ぜ物を撒き散らしてしまうからです。だからダメと言われるのです。
それは道徳とは違う別の領域の危険なもの。神との隔たりの世界へ入ってしまう事なのです。
神に言われた事以外をして、知識の木から食べたら、その実を
食べることは道徳的な事とは全然関係ないですよね。食べると
言うことは一番基本的な日常の事。これは大きな教えなのです。
でも神の警告無視してやった結果、確実に”死”が入った。
すぐには死ななかったけれど、死は物理的にも隔たりを生み、
実際にこの体が朽ちる結末になり、神とそして人との関係の世界にも隔たりを生んで、別世界へ飛び出してしまった。
本来あるべき状態から、飛び出てしまったのです。理解不能ですよね。毒食べたわけではないけど、死ぬ。神がだめ!と言われる事どの一つでもすれば、同じ結末が生まれると言う警告でもあるのでしょう。
神と夫婦間と言う一番近しい、親しい、麗しい関係が壊れた。
神との隔たりの世界。自分がそのままでは神に近づけない領域に
飛び込んでしまう。神の言葉を捨てる、無視するとは今も同じ
結末を生むことに気が付いた方が安全なのです。
預言者が来て、悔い改めよ!と言われたら、彼らイスラエルが
私達罪人ですから、罪犯すことを好み、選んでやってますよ!とイスラエルの人々が言ったのかと思いますが、そうではなかったのです。罪を犯しているなんて到底頭に浮かばない状態だった
のです。純粋に罪、ずれを犯していたのです。
”ええ〜!罪なんて犯してません。ひいおじいちゃん、
おばあちゃん、いやその前の先祖代々家系で皆々様でやって来た伝統に乗っ取ってやってるだけでしょう。何がいけないんですか?ダンとベテルで礼拝しているのは、1000年以上も前からの事なんですよ!ソロモンが建てた高き所で皆礼拝して来たでは
ないですか?それが何か悪いわけ?
イスラエルの神を礼拝しているんですよ!純粋に。それなのに
罪を犯してる、罪人だと言うんですか?”とイスラエルの人々はへゼキヤ王に文句を言ったのです。
それほど罪を罪だと認識せず、逆に神の前に正しく仕えていると
考えていたのです。
でも、実際には神の目には悪!罪人の行為をしていたのです。
気が付いてないと言うところが問題なのです。
純粋にやっていた。なぜダメなの?
カウンターフィット=偽物、まがい物を土台にしている、
まがい物、偽物の信仰だからです。それはイスラエルの神の要素ではないからです。これが要注意。見分けが付かない、2種の種を撒いたら何が本当で何がまがい物か分からなくなるのです。
長い伝統でやって来たからそれが神の前にピュアな事になるのでは無いのです。イスラエルの神に属さない混ぜ物を、吐き出すと神が言われた警告に耳を傾けたらそれは気が付けるのです。
いや、初めから”混ぜ物”まがい物、偽物の教えに浸っていた
イスラエルはそれが悪い事だと気が付かなかった記録が
書かれていますから、そう簡単には気が付けない。
だって生まれた時からそう教えられ、誰も皆先祖代々行なって
いる混ぜ物の高き所の礼拝がなんで悪いのか気が付けない。
聖書読めば?それでも気が付けない。初めから混ぜ物の教えを
教えられたら、混ざっているから高きところ=人が考え出した、
自分の思いついた方法の神への礼拝が悪いなんて考える事が
出来ないのです。
一旦暗い部屋に本物の灯が付いたら、ゴミ=まがい物=混ぜ物=
イスラエルの神に属さない数々の教えや行動に気がつくものです。これ!イスラエルの神のものとは異なる、まがい物、偽物だ!と気が付ける。
誰が”まがい物、偽物”を使いますか?騙す者でしょう。
エデンの園のあの動物の声。騙す、似たようで非なるもの。
本物に似た見かけで、匂いも、形も、雰囲気、味もそれらしく、本物みたいだけど、でもそれは実は偽物!カウンターフィット。まがい物。それが騙しの手口なのです。
イエシュアも言われたでしょう。盗人は堂々と家に入って来ないと。知らない間に忍び込み、宝を盗む。それです。まさに。
分かるようには騙さない。そんなバカなやり方しない。
知らない間に、二種の種に浸れば、もう見分けられない、
鈍くなるからです。生ぬるい水に浸ったら感覚麻痺。
見分けられない。伝統のカウンターフィットの教えだから。
偽物が目の前に来て、”礼拝せよ!”なんてあからさまに分かる
方法では現れないのです。似ているようで、味も、見かけも、
匂いも似ているけど本質が混ぜ物だからイスラエルの神のものとは非なるものの形で人の思索、行動を取り込むからです。
だから要注意!とずっと聖書で警告されているのです。知らない間に、別物が混じったものを信仰し、礼拝し、偽物の信仰を築き上げてしまうからです。
続く