ハヌカ6日目 姦淫の罪の汚れから洗われて | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エデンの園の始め、人類の始まりの、最初の最初から、

神のインストラクションは本当にシンプルでした。

な〜んにも複雑ではない、幼児でさえも理解出来る事。

そして、永遠に変わらない神の言葉=同じ”トラー”が、

神の口から直接アダムとイヴに語られて教えられていたのです。

園の素晴らしい美しさの中、神と共に手と手を取り、楽しく談笑歩きながら、この美しい園の中で美しい神の姿に造られた人間のエッセンス通り、どの様にガードして生きるのか、教えられた。

 

神の言葉が文字で書かれたのは、ずっとずっと後。

モーセを通して与えられたのは、出エジプト直後の最初の

シャヴオートの時です。シナイ山で。全世界に印象づけられる出来事を通して。

聖書の最初の3章では、大きな柱が書かれている。

そしてその後の箇所全てで、ずっとその三章の解説が書いてあるのです。

 

神のインストラクションの解説は、文字数が必要なのです。

三分で出来るインスタントカップラーメンの世界ではない。

文字数も数章で解説、説明など出来ない。永遠に繋がる神の世界、人の生きる世界が語られているから。

3章の中で、詳細の全部解を解説出来ないから、モーセの五書が必要な訳です。

 

”命の木からだけ、知識の木からは食べてはダメ”

そんなにむずかしい事だったのか?いや全然簡単でしょう。

神に言われた通りに生きれば良いだけだった。

しかも、毎日の普通にする事。”食べる事”に関して。

これは、人の生きる領域の全てのエッセンスを網羅している内容でもありますが、全然難しくないのです。神の言われた言葉を

ガードし生きると言う事が中心。それを無視して、神の言われた事とは違う事をしたら、”死ぬ”と言われた。考えたら本当に

単純。しかも、簡単過ぎて、何?て感じ。そんなの破っても

平気かもと思う内容です。何重にも厳重に鍵かけられた奥の間に入り、侵害してはならないものに触れると言うものでもない。

そこにある、簡単に出来る。人間的にはそう思う。

スケート選手のあの4回転半、3回転みたいな超技巧をすることでもない。誰でも出来る簡単なこと。

 

神の言葉の全ては、人がどの様に生きる様に造られているのか、

神が伝えているのです。

 

神に教えられなければ、人は自分自らの定義で人間の生き方を

編み出す事は出来ないからです。なぜ?答えもシンプル。

人は神に造られた、被造物だから。創造主が、全てをデザイン

したからです。神だけが、人の生き方の全てのインストラクションを伝える事が出来る、唯一の存在だからです。

でも、人間定義のそれぞれが考える自分勝手な思索、生き方、

やり方を選びたい。”かみさまの 言うとおり〜”なんていやだ。

それが大元の問題の根です。

今の世界を眺めても、神のデザインを塗り替える、再定義し直す風潮が蔓延しつつあり、再定義された”人間とは”と言う哲学を

人が受け入れないとならない、強制感があります。意義申し立てする方が憚られる。いや、妨害される。神のデザインに反すると言うことを言えない暗黙の了解の空気が世界を覆っています。

フリースタイルの世界。危ない状態。神の言葉を捨てる事から

発している今の世界の状況なのです。何をガードして生きたら良いのか、分からず彷徨う。破壊される。命を実際にも生み出せない。

 

人はそれぞれが自分勝手、思うままの方向へ散っていったと、

コヘレトの書にある通りの道を辿って来たのです。繰り返し、

繰り返し、それは加速しつつあります。

お互いをヴァイオレートする。自分の利益だけを求める。

人を破壊して行く世界。

 

でも、マカバイ戦争の裏にあった様に、どの時代、どの時代にも

残りの民を神は確保しているのです。その人達は、トラー、預言書のイエシュアの実態を知り、神の言葉を生きて世界へ地の塩

世の光として存在していた人達。そうでなければ、水で薄められ、変えられた、歪められた神の言葉=まがいものの福音しか

伝えられなくなってしまうからです。いきなり2000年前から

救い主を知る人が出てきて、救い贖いの実態、天の現実=新しい人を生きる人達が出現したのでは無いのです。ずっとはじめから、神の命イエシュアの救い、贖いをその身に受けて生きていた人達の継続的集まり=カハール、エクレシア=神の言葉、声に呼び出され応答し神の命の実態を生きていた人達。同じグループが

同じ契約の中に加えられ続け、継続的に今に繋がっているのです。教会と言う造語ではない、”カハール”は最初から存在している。

 

神の教え、インストラクションは、奥が深いですが、複雑なことでは無い。神の教えを複雑なことに塗り替え、変身させるのは人間です。そして、的が外れて別物の人を縛る教えを作り上げて、それを人に強要することがずっと書かれています。

 

人類の問題の根はいつも同じです。神の言うこと、言葉を無視する事です。神の言葉から意識を逸らすと、神の言葉など無視しても良いと考えてしまい、そこから、判断力が鈍る。照らし合わせる基準=神の言葉を捨てるから、分からなくなる。

神の言葉を神からの大事なメッセージと考える事からはぐれた

結果は、最初の3章に書いてあります。

そして隔たり=死が入り込んだのです。とても深い事を教えていると思いませんか?食べたら、死ぬよと。でも神の言われる事を

無視したら破壊に向かうよと言われているのに、分からないほど

鈍くなれる。簡単な教えなのに。あの時に言われた言葉は今も

同じ意味です。食べたら死ぬ。神と隔たりのある関係に飛び出す。

死。死とは命から切り離された場所に行く事、神の命の源と繋がらない、何か隔たりが出来る事でもあるのでしょう。神を遠く感じるのは、隔たり、妨害、障害物があるからです。

 

すぐには体は死ななかったとある事からも、死=セパレーション

分離、隔たり、壁。あるべき状態から飛び出す。

自分が神の子である、神の似姿である事実が分からなくなる。

同時に相手の事も、幕が覆いがかかったまま、神の目から見た

本来の相手の姿が見えなくなる。

その隔たりが起こった結果、世界で初めての夫婦喧嘩、

バトルが起きたでしょう。

自分の行動なのに、相手のせいにする。相手をなじる。

批判する。咎める。しかも、神のせいにまでしたでしょう。

神との関係も壊れ、幕がかかり、今までに無い感情が出てくる。

恥じる。隠れる。関係が壊れた。この様な感情、行動は

神のデザインのエッセンスではなかったのです。それが入りこんだ。

 

そして、彼らの最初の子が、兄弟殺人までしてしまう状態に。

自分の子が、他の自分の子を殺す悲劇が起きる。

それ以降、ずっと聖書には、同じパターンの出来事が繰り返し

書かれています。

歪んだ人、夫婦、家族と、その修復の道のりです。

 

この修復作業の道のりが、神の言葉の中で表されているのです。

シンプル。全ては関係の世界の修復の出来事。

迷い出た人達は、いかに修復するのか、その術を知らないから

神に教えられる必要がある。その答えは神の言葉の中に詳細として書かれています。

だから、聖書にはずっと同じパターンが繰り返し、書かれているのです。同じメッセージがずっと書かれています。

 

 

 

続く