ローマ11:21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、
あなたを=異邦人を惜しむようなことはないであろう。
木とは、神を表す言葉でもあり、イエシュアがご自分を
”エッツ”と宣言して、人々が神宣言にドン引きしたように
ヘブライ人なら分かる言葉です。
そして、この”木”神に接ぎ木されたとは、神の婚姻契約
イスラエルの神の家族に加えられたと言うヘブライ語での
意味です。別の婚姻契約の中の別の花嫁にされたのでは
無いからです。
<元の木=初めの愛=永遠の婚姻契約に繋がれた枝。
ユダヤ人たちと同じ家族、家=その家訓=神の婚姻契約に
加えられた全世界の異邦人たち。その1つ家族が生きる、
その詳細はトラーに書かれている。その家訓を生きる様に、
他の人達も共に加えられた。エデンから出て、エデンに戻る>
ナツア=枝とは、ナザレ、ナジルと同じルート文字。
11:22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに
向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまって
いるなら、あなたに向けられる。そうでないと、
あなたも切り取られるであろう。
パウロはが”慈愛にとどまるなら”と言うのは、何を指して
言っているのか?ヘブライ人なら解説なしに、即分かります。
はっきりしています。永遠普遍の神の婚姻契約の生き方に
とどまるなら、詰まり、別の夫に走る=別の教えに走るなら、
切り取られるとはっきり書かれています。自分で、別の家の
別の主人の、別の主人の生き方を選んだから、勝手に
出て行くのなら、仕方ないでしょうと言う事。
引き止めますが、トラーは嫌!婚姻契約いや!自由がいい。
ユダヤなんていや!神はローマの神ではなくて、イスラエルの
神なんですよね。ご自分をイスラエルの神と紹介している意味
がちゃんとあるのです。トラーに書かれた神。イスラエルの神。
好き放題、自分のフィーリングに合わせて生きたい!
恵の時代は、霊に導かれるかれれば良いから、神の言葉なんて
読まない、聞きかなくてもいいと言う人までいますが。
神の言葉を読まないなら、何の霊に導かれてるのかも不明に
なってしまうのです。
神=ルアフ=霊=言葉=言葉が肉体を取ってきたイエシュアと
書いてある。
ヘブライ語では。神=言葉、人は神の口から出る一つ一つの
言葉を食べて生きる。それを捨てたら、飢餓状態は免れない。
それでは、正常な婚姻関係は結べないのです。
この家に嫁いだら、あなたは今まで遠く離れた生き方を
していたから、1から知って、わたしの言った通りを生きて
ください。安全のためにと神が言うのが嫌ならそれは、
今の世の中の様に、なんでもあり、フリースタイル、
同性婚でも、動物婚でも、なんでもありになる。今は恵の
時代でなんでもあり、自由。自分の悟りに頼り、神の言う
ことなど古い教え、律法なので、そんなの無視、捨てて、
自分の判断に委ねられているので、好き放題やる。
神のトラーを1つでも捨てれば、後は全部同じ。一点一画も
取り除くな、付け足すなとはそう言う意味だからです。
ダウンフォールは免れないからです。互いを汚染してしまう。
これは、預言者が語っている内容=トラーから外れた婚姻契約
から飛び出して、生きていたイスラエルへ向けて警告=
契約の愛=はじめの愛を忘れた生きている危険な人達への警告
なのです。全部繋がっているのです。別の契約、別の教えが
あると勘違いするから、見えて来ないだけで。
<神のトラー=婚姻契約=元の木から外れれば、
切り取られる>天国地獄なんて考えないで。神の意図、
本来の喜びの向き合う関係の世界から飛び出る。
夫の言う言葉の重要性、軽んじていれば、関係も軽くなる。
イスラエルが切り取られた二の舞をあなた方も経験するだろう
とパウロは言っているのです。
11:23 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるで
あろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
つがれる。もともと婚姻契約につがれた人の方が
簡単に戻れるからです。全く無関係、遠く離れた
異邦人よりたやすく元の木に根付く。
ここで、書かれている頑なユダヤ人とは一部の人達です。
全部のユダヤ人=トラーを生きている、救い主知らない
頑な=呪われていると言う極端な方程式を捨てる。
この当時、ほとんんどのイエシュア信者は、ユダヤ人
だからです。全部のユダヤ人などと読み込みしたら
とんでもなく逸脱した理解になります。
置換神学の様な教えは、このように異教徒の教え、
ローマ支配の地から出てきた、トラーを捨てよとする
ローマ政府の下トラーを捨てた教えを土台とする信仰=
異邦人主教、教父たちにより編み出された教えなのです。
聖書にはもちろん加えられない、作者不明の
”バルナバの書簡”と言うのがあります。このバルナバとは
パウロと共に弟子として働いたバルナバではありません。
バルナバにちなんで、名前拝借したのです。
”本当に契約は我々のものだ。モーセはほとんどそれを
受け取り損ね、ユダヤ人はそれを永遠に剥奪されたのだ。”
130-132CE
この人が言うだけで、神が言ったのでは無いのです。
これも、パウロの言葉に照らし合わせても、神の言葉に
照らし合わせても全く嘘であることは明らかです。
ローマ11:1 神はユダヤ人をすてなかった。契約を
剥奪しなかった。パウロもユダヤ人だと言っているでしょう。
書いてあることから絶対にずれないで読み続けるのです。
聖書の事実、全人類の共通グラウンドに立って検証しない
限り、もう真相は闇の中で、不明です。
書かれていてもその通りに読めない。
イザヤ6・9-11
主は言われた「行け、この民に言うがよいよく聞け、しかし
理解するなよく見よ、しかし悟るな、と。この民の心を
かたくなにし耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、
耳で聞くことなくその心で理解することなく悔い改めて
いやされることのないために。」わたしは言った。
マタイ13:13
見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
もし、神の言葉をその通りに聞こうとしなければ、
同じ事が起こると警告しているのです。歴史は繰り返す。
神の言葉を見ても、聞いても神の言葉のその通りに聞こえない
み言葉を聞けない飢饉。
グノーシス派、トラーを否定、全部ユダヤ色否定した
教えが、バルナバの書簡の中に書かれています。他の初代
教父たちの教えの中にも様々に、ユダヤ色、トラーを否定して
教えを作り出していった痕跡がたくさんあります。
しかも、ローマのイスラエルの弾圧は続き、その結果多くの
尊い命が失われて行き、その流れが十字軍、魔女狩り、そして
現代のホロコーストにまでずっと繋がっているのです。
改革の教父として崇められているルターなど、悲しい事に
最後は、ユダヤ人迫害に火を注ぐ、”ユダヤ人と嘘”と言う本を
書いて、それがヒットラーの教科書、ユダヤ人を絶滅する
ことが、神の御心なのだと言うルターの教えを元に、自分の
ユダヤ人殺害を肯定し、クリスチャンたちにもユダヤ人殺害に
参加する仕事をさせたのです。悲しい歴史。
続く