自分のミッションは、どこどこに行き、又はどこどこの国
に行き、何何をし、何何の宗教活動をして。。。。
こんな事を考え続ける人は多いと思います。
自分の賜物は?賜物イコール宗教活動に役立てるものと言う
教え。
わたしのミニストリーは何だろう?神のために自分は
何をすれば良いのだろう?自分は神のために何もしていない
かもと言う罪悪感に陥る。
神のために全てを捨て生きなければ〜なんて考える。
そう教えられているから。
それって、アバ父が言われている事でしょうか。
それぞれに生活の中で、役割、仕事は目一杯あるのです。
持ち場は持ち場の役割がある。余計な事を作り出す必要ゼロ。
普通に生きる事が、人のする事なのです。
それが、”アボダー”と書かれた、耕すとか礼拝と訳されて
いますが、すなわち生きる事の本質。
エデンの園の中で神の言われた事を神の言われた通りに治めて、
命の木の園を耕し続ける事。命を、保護、守り続ける事。
自分の適性が何か?自分の特長や興味は何か知る事は
必要です。自分の性質、特長を神が造られたから。
自分らしく花開く傾向を見つける。自分らしい事を
して生きる。
そして、何をしなくてはならないのか?
それは、神がアブラハムに言われた通り、
回りの人々に”祝福”の存在として生きるという事。
自分と家族を大事にガードして生きる事。
もし、家族が祝福の源らしい姿、生ける水を環境に湧き出す
姿で生きていたら、それだけで回りの人は必ず潤うはずです。
家庭をしっかり守る。子どもにしっかり神の言葉、生き様を
生きて教える。神の目から見た価値基準、人間とは、人とは、
男女とは、夫婦とは家族とは?それを教える。
それが何か詰まらない事の様に思わされているとしたら、
危険信号です。
何かのミニストリーをしなさいなんて、そんな事書かれて
居ない。自分の置かれた場所で、生きる事。
神のインストラクションに沿って全てを行なう、
生きるだけ。
隣近所、於かれた場所で、その町の中で、向こう三軒両隣でも、
”祝福” 生ける命の水=イエシュアを自分の身の中にたたえて、
実際にイエシュアの姿=神の子の姿をそのまま生きる事、
それに尽きます。
そうでなければ、比べる世界、競争の世界か、果てのない
虚しい追求か、ノルマ、数を達成する空回りの世界。
何かのミニストリーや、宗教活動を熱心にやったら、
神への愛のバロメーターになると思わされてしまう。
神への愛は、宗教活動熱心さだと思わされてしまう。
人間の作り出した宗教活動、イコール神への忠誠心とか
信仰の証、バローメーター、証明、証拠などと思わされて
しまったら、神の言葉を知る事もなく、自分の生きる事、
自分の生活や家庭がおろそかになり、余計な事に
時間取られて疲れて、ヘトヘトになるだけ。
フォーカスがぶれてしまう。
そう言う事をしない人は、何も神のためにやってないと
思わされる。神のため?いや神が人のために全てをしたと言う
基本的な所がブレて考えている。
生きる事は、キリスト、生きる事はイエシュア。
イエシュア=神の言葉=神の示した人間の生き様
本当の命、人生を生きる事と書いてある。
生きる事〜宗教活動、ノルマ達成と書いてない。
ではなんと書いてあるのだろう?
神を愛する人は、神の言葉=仰せを愛して、神の言葉通りを
生きる事を実践する人と書かれているのです。
そして、落ちついて自分を生きる、しっかり生活する。
逆に言うと、神を愛さない人は、神の言う事を聞かない、
退けると書かれています。
しかも、救い主を人に伝達するためのノーハウは習えども、
神の言葉と、その言葉の実態をどう生きるのか?と言う事を
殆ど教えられる事もないまま、活動、パフォーマンス
フォーカスの世界を教えられてしまうのです。
主のためと言う一言を投げかけられだけで、神の言葉の中身を
知らない場合は、人の指示に操られて行ってしまう。
仕事が忙しいのに、疲労した体で、休めないまま宗教活動を
する。でも活動に参加しないと、神の前に申し訳のない、
不届きものだと思わされてしまう。家庭の団らがおろそかに
なり、色々な活動に専念して自己満足=神の前にやってる感を
得てしまう。本末転倒の自体を招く。
新しくされた自分を生きる。新しくされた人の実態は、
トラーに書かれているのです。それをまず知る。
新しい命を本当に生きる事をまず始める。絶えざる新しい
人を生きる練習を日々続けて行く。
家庭を大事にする。家族が心地よく生活出来るために
ちゃんと役割を果たす。家族の関係を大事にする。
職場で、家庭で新しい人として、世の光、地の塩として
生きる。
ビジネスを、神の子としてこなす。
任された仕事を、しっかりやる。
家庭の中に、自分の中に、エデンの園を耕し続ける。
エデン=喜びをガードし、保護し続けるて生きる事をする。
エデンの園をガードする。
喜びをガードするには、神の言葉に集中、フォーカス
する。要らない思い煩いや、疑いが忍び込むの
防波堤になるのは、いつでも神の言葉=約束、
それが鎧兜、安全なとりで。
何も難しい事では無い。でも、注意深い思索と、学びと、
神の言葉に沿って生きる練習は必要なのです。
余計な事なんて何一つする必要は無い。
誰かの教えに縛られて、何かをしなくては思う事自体が
神の言葉、声からズレている圏外の場所に居る証拠。
聖書を読むと、全て中心は”あなたの住まいに於いて”
生きる事が書いてある。神の言葉は生きる事を保護する
ための知恵、教え、インストラクション。家庭、
自分の生きる場所が基本。
回りに居る隣人の益も考える事。侵害しないで
互いにシャロームの状態で生きる事。
これに尽きる事が書かれています。
それは、衣食住全般、生きる事全てに渡って
詳細が書かれているのです。それを捨てたらどう生きて
良いのか分からないのは当然なのです。
神の子らしく、それぞれの場で生きる事。
専念しなくてはならないのは、神の言葉を熱心に
探り求め続ける事。神の言葉を取りて食べよと言われて
いる。天から下る命のパンを食べないでは
生きていても屍の様になる。
それは、どの様に生きたら良いのかの、
神からの教え、指針だからです。
神の子として、神の子らしく、普通の生活を、
生きる事に尽きる。
それぞれが、それぞれの命を生きる。
それぞれが、それぞれの与えられた人生を生きる。
大地に眠った種が芽生えるための、水。
天から降り注ぐ生ける水=神の言葉を受けて、
大地に自分らしい花が芽生えるために、
必要な事をするだけ。
ただそれだけ。
