ユダヤ人の友人であり教師である方々を、10年前、
始めて我が家にご招待し、夕食を共にした時に、
聞いた質問です。
”クリスチャンですか?”と私が聞いた事。
私の中では、クリスチャン、イコール、イエスさま、
ジーザスを信じる人達と言う固定概念がありました。
言葉に詰まっていた彼らを思い出します。![]()
イエシュアを信じるユダヤ人に同じ質問したら、
多分、同じ反応をすると思います。
又は、解説、説明を付け足して来ると思います。
別のイスラエルの神が居る訳ではない。
別のイエシュアが居る訳ではないのです。
では何が違うの?と聞いた時の彼らの答えは
決まってます。
イエシュア像は、トラーの中身そのもの。
それ以外のイエシュア像など、彼らの頭の中には無い。
トラーを捨てよと言う、救い主など無いからです。
トラー、預言書、諸書=わたしそのものと言われた、
イエシュアが、それだからです。
永遠不変の神の言葉、トラー=神の婚姻契約は永遠不変、
不滅。
分断思想、人間神学の唱える所の歴史の途中、
2000年前後で神の言葉、神の業、救い、購い、許し、
助け、神の恵みや祝福、神の人に対しての対応、態度が
変わるなんて微塵にも考えていない、いやそんな考えは
聖書に基づき思い浮かぶ事さえしない人達。
永遠から、神の領域から全てを見る、ヘブライ思索の世界。
世の中には、クリスチャンではないけれど、
イェシュアを信じている人達が、今や大勢居るのです。
今世界では、人間の作り出した宗教ではなくて、神の言葉に
ダイレクトに、ルーツに戻りたい、ヘブライ語聖書の中身を
知りたい、神御自身の本当の姿に出会いたいと、
願望する多くの人達が出現しています。
そして、知りたい!と言う、直接の動機が、様々な方向から
来ているのです。
しかも、その殆どがクリスチャン達です。
別の方角ですと、多くの人達は、隠されてしまった神の創造の
真実を発見し、神の造られた世界が、人間の唱える有名で、
かつ実は偽の仮説とは違うぞ!と言う事を発見して、それを、
ヘブライ語聖書の中に根拠を見いだせるか、そのために、
真剣にヘブライ語聖書の中身を学ぶ。調べる。探る、求める。
鳥肌が立つ様な事ですが、神は神の真実を探求する人達に
必ず真実を明かして下さるのです。
神が人々を引き寄せている。
さあ、私の真実を発見して!と待っているアバ父。
神の造られた世界を観察している、神を知らない人達も、
神が存在する事を発見してしまうのです。何故なら神が
造られた世界そのものが、福音の絵画的表現。神の言葉、
福音と神の創造物はマッチしているからです。
言葉で全てが造られたから。
そして、イエシュアに出会ってしまう。
神の真実のどんな側面に出会う時も、神と遭遇する
機会になる。これも神の時だと思います。
どの国の人でも、どんな人種でも、
イスラエルの神の子らにされたら、同じ大家族。
同じ木に接ぎ木されたのです。
同じ囲いに入れられた羊と書かれています。
ユダヤ人であり、”イエシュア”信者である友人達と話し、
ヘブライ語の聖書の中身を、ヘブライ語で一緒に読み、
学び、色々な側面から解説してもらうと、西洋宗教の教えとは、
全然違う世界が飛び出して来るのです。
一つのイスラエルの神、同じイエシュア救い主を
信じている。でも、イスラエルの神像が、西洋宗教の語る
そのものとは、アングル、視点、領域、思索が全く違うと
言う事に気がつくのです。
アプリで造る”変形顔”の写真。
同じ人物なのに、変顔編集するとまるで違う人相になる。
一番の違いは、彼らは神の言葉が永遠不変である事を
神の言葉通りを、受け止めている、知っている事。
西洋宗教神学の教えを通してなど、神の言葉を読まない、
考えない。
直に、ダイレクトに、ヘブライ思索のヘブライ語聖書。
テキストは、神の言葉。人の教え、神学では無い。
一方私が今迄聞いて来たのは、西洋宗教が語る所の”神像”。
イスラエルの神と言う色は、自分の意識の中には
全然無かったのです。
聖書に書いてあるのは、ヘブライの神のはずなに、
どうしてもアメリカンな、ヨーロピアンな神像が自分の、
意識、思索が脳内を支配していたのです。
私の頭の中には、どうしてもあのヨーロッパ寺院の雰囲気、
又は、アメリカンなあの雰囲気に沿った神像がどっかり
座っていた。途中で変わる”イスラエルの神”。
詰まり異教の神々の中で育った意識を引きずったまま
信じていた。
アメリカンな雰囲気のイエシュアのイメージ。
普通に考えたら変だと分かるはずなのに。
なぜイスラエルの神の言葉が、西洋宗教と呼ばれるの?
イスラエルの神の言葉は、西洋でも、宗教でもない。
純粋な神の御口から出た言葉。私達のエッセンス。
ヘブライの神、永遠から存在し、時空に妨げられずに
永遠の領域から常にアプローチしている神などと言う意識
とは、一切、繋がらない、思い浮かばないほどに。
私自身は、ヘブライ語原語の聖書など、10年前まで聞いた事
も無ければ、読んだ事も無ければ、ヘブライ文字さえも見た
事もまるでありませんでした。
続く