神の言葉、神の言われる事を曲げたらどうなるのか? 箴言19 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉は、絶対性がある。永遠に揺るがない、変わらない、

そして重要と言う意識が、異邦人の世界には殆ど

無いと思うのです。

たとえ、聖書は一つです、変わらない真実ですと、

そう口で宣言しても、実際には、神の言葉をその宣言通り、

全く取り扱って居ないと言う事実があるからです。

 

それは、神の言葉が歴史の途中で変わったと言う

人間思索の教えから来る影響、固定概念によるのです。

自分の語る言葉、信じている内容を、聖書に照らし合せて

考える事をしない事でもあると思うのです。

それは、私自身の辿って来た事でもあります。

 

誰かにそう教えられて来たから、そう考えるだけ。

聖書には書かれていない、様々な人間哲学思想に基づく、

聖書観や聖書概念を植え付けられて来た。

そして、その誰かの考えの色眼鏡を通して、神の言葉を読めば、

これまた、神の言葉の事実から外れて、逸脱し、

変化し、七変化です。

神の言葉が、カメレオンの様に、人の教えと言う様々な

環境により、色が変化してしまう現象が起きてしまうのです。

 

世間で聞く発言にも、神の言葉は2000年で大部分、

終った教えだと言う。誰がそんな神の言葉を仕分けする

権限を、神を差し置いて頂いたのか?と考える。

神の権威の上に立ちたい存在は、”あの存在”しかないでしょう。

 

もう律法は、破棄され消えたので、何何はしませんとか、

イスラエルだけへの教えでしょう?と、その様な考えは、

生粋、ピュアな異教の神々の国に生きる、

異邦人思考から来るものです。ヘブライの世界、イスラエル

にはそんな考えなど微塵も無い。

その類いの話をたくさん聞いて来ましたし、今もその様な

教えが殆ど主流ではないかと思います。

 

それは、神がどんな存在であるか?と言う事が

見えて来ない発言です。

神がこの世界を全て造られたのに、神の造られた世界を、

又神の言葉を、神御自身に関しても、

神に造られた創造物である人間が勝手気まま、思うままに、

定義しているからです。

しかも、神の言葉に基づかないで、変わったのだと

4世紀以降に、ローマ皇帝により勝手にアドリブアレンジ

されて造られた当時発生した新宗教の教えの方を取り、

神の言葉を退けて語っている。

 

イスラエルの神の言葉をどれだけ軽く取り扱っている事に、

気がつかない宣言でもあると思うのです。

創造主は、ローマの神ではなく、イスラエルの神である。

人間が神の上に権威を置いている行為。

 

神の言葉は、永遠不変である事、聖書に戻り事実を

照らし合せると明らかに書かれているから分かるはずです。

反イスラエルの神、反ユダヤ、反トラーと全部繋がる。

 

神の言葉が終ったと教えられてしまうから、聖書の最初の

三分の2の部分を殆ど飛ばして、最後の三分の1から読む様に

教えらてしまう。最初の箇所の三分の2の書を、じっくり

学ぶ事も殆どしない。全く手を付けずに、

読まない書もたくさんあるのではないでしょうか?

聖書は神からのラブレターと宣言しながら、その中身を

読まない。愛する人に頂いた手紙は、隅から隅まで

知り尽くしたい、くまなく行間まで知りたいと

渇望するのではないのかと思います。

ちょこと、1、2節引用しても、その書全体をくまなく

知り、教えられる事をされて来ているのか?

 

世界は、本当に神の言葉を知らなくなって行った現象、

事実が顕著です。毎年世界に、トータル年の半分は

教えに行く数人の友人達が、聖書の中身を殆ど知らなくて、

驚くと言っていました。

救いや購いの意味も、自分の言葉で説明出来ない。

聖書の中に書かれているたくさんの記事も、

何の話か全然知らないと言う状態だそうです。

だから、その中に書かれている事を、ちゃんと解説しないと

始まらないと言っていました。

 

コメンタリー<福音書から黙示録>だけを読んでも、

大元の書を学ばなければ、その意味が分からないのです。

人間世界の書でも、上巻読まずに、下巻だけ読んでも

分からない。

 

もし、神の言葉が途中で変わるとしたら、建物を建てた後に

基礎土台を全部取り除くと言う事と同じです。

そして、神の言葉から離れるとどうなるのか?

”迷い出る”と書かれています。迷っている事にも気がつかない

かもしれないほどに。

 

エデンの園の出来事を常に思い出すと分かります。

単純な仰せ、親からの注意事項は、守るのにすごく

簡単な事。何も複雑な事ではない。

だから、疑ったのでしょう。こんな程度の事でいいのかな?

と。何かもっと付けたしたい気持ちにかられる。

蛇の誘惑はまことに巧みでした。

でも、その結末は、命と引き換えの代償であった事を

考えれば、神の言葉を否定、無視する事の重大な落とし穴

に落ち込む事に気がつけます。

 

 

 

続く