今現在も、全世界のユダヤ人の間で、そしてイエシュアを
信じて、トラー=契約の命、神の言葉を愛し、
それに生きる異邦人達の間でも行なわれているトラー通読。
イエシュアも、イスラエルに居られた時されていたのです。
シャバットの時に、ベイト カネセット=エルサレム以外の
イスラエルの地方では、神殿が無いので、
会堂と訳されている皆が寄り合うために、ラビ達の発案で
造られた町の中にある場所。
そこで、イエシュア御自身が、御自分の事が書かれた
イザヤ書の箇所を、朗読された記録が福音書にある通りです。
イスラエルでは、シャバットにベイト カネセットに行く
人達も居ますが、殆どが家庭で過ごす事が主流です。
それが、神の仰せだから。家族との時間を大事にする日。
当時は、トラーの巻きが一家に一つ置いてない時代。
皆、トラーを丸暗記をしていたのですが、実際にトラーを
開いて読むのは、その会堂に保管されているトラーを、
シャバットに誰かが朗読する。そして、アラム語でも同じ様
に読む。
今は、印刷技術と紙が安いですから普通の庶民も手が届く。
本になった聖書を持っている。
でも本物のトラーは羊皮紙で出来ており、とても高価な
ものですから、イスラエルの人とて、本物の羊皮紙に、
トラーを書き写す専門職の訓練を受けた人達だけに依り、
一文字一文字、手書きで書かれたトラーを
所有している人は、殆どいないです。
ベイトカネセットには、もちろんトラーの巻きは
置いてあります。
友人は、3つ位のトラーを所有しています。
でも、個人でそんなものを所有するのは、珍しいです。
一つ何百万もするらしいですから。
一年に渡り<三年サイクルもありますが>トラーと、
その箇所に付随する預言書、諸書を読むと
言う朗読サイクルが在ります。
今は、出エジプトを読み進んでいる所です。
毎週の箇所は数章しか無いですが、私の場合は、
中に書かれている言葉を、語源まで辿り、又は他の情報も
含め、じっくり調べて行く。
原語で読み進めるので、ゆっくり、ゆっくりですが。
中に書かれている、重要な名前や、地名、数字も含めて、
調べるのに時間がかかるので、一日に読む箇所を、
日割りで決めて、一週間かけて、じっくりその数章に
関する内容を、学ぶ。
神を愛する人は神の言葉を愛すると書いてある。
神=神の言葉、神の言われる事を、追い求める事、
その中に留まり続ける事。
そして、神の言葉=インストラクション通りを、
実際に生きる事だと書いてあります。
神の言葉は飾り物ではないと書かれている。
主を愛する人は、主の仰せを愛するとある通り。
仰とか、掟とか、知恵などと訳されている言葉は
全てトラーの事を指して、書いてあるのです。
神の仰せを、神のトラーを寝ても、覚めても、
道を歩いていても、何をしていても、常に
思いめぐらしなさいとある通り。
それは、全て”自分のまことの命”をガードするためのもの。
頑張って神に喜ばれようとか、神の仰を生きて義と認め
られ様などと、そんな意識は、
圏外のズレた意識だと言う事です。それを、律法主義と
言う言葉で表しているのです。
神の言葉を生きて義とされ様とするなんて、それでは
神の提供して下さった無償の業が無意味になります。
義とされた事は、一方的な無償のギフト。
人間の努力で手に入れられる類いの物ではないからです。
無い金でワインを買いに来なさいと言った通り。
神を愛すると言うのは、実際の行動、生き様の事です。
愛してま〜すと、口先きだけで発言する事ではない。
有言実行が神の言われる世界。
ヘブライの世界は全てが合致、エハッド=一つ。
切り離して考えたりしない。
信仰と行動とはコインの裏表の様にピッタリくっついて
いるのです。切り離したら、意味が無い。
又、神の言われる事を否定したら、その信仰と、生き様は
崩壊する。だから、神の言われる事の意図通りをまず知る
必要があるのです。知れば、神の言われる通りを実際に
生きれるから。生きれる様にされていると書いてある。
それが、完了の業で取戻された事実。
だから、神の愛とは、トラーに書かれた、アハバ=契約の愛。
その愛の姿は、トラーの中に書かれている。
トラーの中身を知る事は、神の言われる”愛”の姿の内容、
意味をまず知ると言う事から始まると言う事が
書かれているのです。
神の言われている事が何だかよく分からなければ、
何をどう生きたら良いのか只の、自分判断、基準、
妄想になるかもしれない。
ヘブライの聖書には、感じなさいなんて一度も書いてない。
全て、”知りなさい”と書かれている。
感じるのは思索があって、その上に初めて感情が後で生まれて
来るものなのです。
心と言う翻訳も無い。心と書いてある言葉は、レブ=全て
”頭脳”と言う意味で書かれている。
しかも、人間や動物と言う存在を指して、
霊、魂、体と言うバラバラな言葉も書かれていない。
魂と、霊と言うきり離した言葉も無い。
ルアフ=霊とか風とか息と訳されている言葉。
風も、息も、霊も一つ言葉、”ルアフ”で表現されている。
魂に匹敵する言葉も無い。
霊、魂、体と言うバラバラな言葉は、ギリシャ哲学思想を
受けた、ギリシャ語の翻訳から出現して、
ヘブライ思索とは別の概念が入って来て、そう訳されて
しまっただけで、ヘブライ語の世界には、その言葉も無い。
他で言えば、歴史と言う言葉も無い。
”記憶”と言う言葉で、歴史と言う言葉が書かれている。
そう言う多くの相違点を、原語の中に見つける事が出来ます。
この40年近い年月の中で、世界は”神の言葉”を本当に
学ぶと言う事からかけ離れてしまったと言われています。
それは、何故なのか?
続く