トラー<聖書>の中に書かれている神の永遠不変の定めの日。
聖書に書かれている”主の日”とは全てシャバット。
週の第七日目。そして、祭りの全ては、週のどの日でも
シャバットとなりスタートするからです。
今週の水曜日日没も、仮庵の祭りの初日ですから、
週の第三日目ですが、”シャバット”として過ごすのです。
聖書の事実だけに戻ると、何が神の言葉の真実で、
何が人の作り出した教えで、それが世界に浸透して神の仰せだと
思い込まれているのか、明らかにクリアーに分かって来ます。
人の作り出した教えを神の言葉に混ぜて、人の教えを土台に考えて行けば、何が神の言葉の真実なのか見えなくなります。
だから、常に聖書だけに戻る。何が本当に書かれているのか、
何が書かれていないのか、聖書の真実を捉える、
真実を掴む。真理を知る事は不可欠な事なのです。
”あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする”
とある通りだからです。非真理=人を自由にしない、縛り付けてしまうから。
”神の定めの日”を生きる事、神のモアデイムを生きて体験する
事は、神と特別な出会い方をする事だと書かれています。
神がそう言われたらそうだと言う事実、人が神の言葉を
曲げる余地がないのです。
”あなたとそこで会おう。特別な日に特別な出会い方をしよう”と
聞いたら、”私は、そんなの関係ないのです。毎日特別に主に会っているからいいんですよ。それは、古い時代の古い教えで
しょう。その古い部分の神の言葉は、信じてませんし、
受け取りませんし、やってみようとも思いません。
イスラエルの人達だけが、勝手にやっていれば良いだけの事。”
<あるグループでは、神の祭りを祝う事が悪い事の様に教え
られていると聞きました。それをする人は律法主義、
古い教えに戻るのだ。だからシャバットも祭りもやりません
宣言をしていました。>
古い教え?新しい教えと思い込んでいるその教えは
実は、同じ”トラー”。同じ中身なのですが。
二つの別の家訓=契約なんて無いのです。
2000年以降の信者は、もうそんな古い教え、しません。
”と言われるかもしれません。とても不思議な教えなのです。
聖書を分断して考えているのは、ギリシャローマ思索哲学の
教えで、神の言葉を上塗りされた教えを、神の教えだと
教えられ、学んで来たからです。
聖書の中を読むと分かりますが、パウロや使徒達、
最後の黙示録に至るまでも、この預言的祭りの全てを、イエシュア昇天後も執り行っていた事が書かれています。
しかも、来るべき世界で、神のシャバット、祭りが祝われる。
たとえ神殿が70ADに崩壊した今でも、神の言葉は、不変です。
特別な日に、特別な集まりや祝いをする事の意味を、
イスラエルの神を信じていなくても、それぞれの国の文化や
それぞれの祝い日をする事で、特別な体験、印象、思い出
絆が生まれる事は、誰でも体験上知っている事だと思います。
どの日も大事だから、特別な祝い日なんてしませんと言う家族は
いないと思います。
特別な日を神御自身が造った。設けた。月、星、太陽はその定めの日のために造られた。神がデザイナー、神オリジナルの祭り。
誰かが、後から考えて作り出したものではない。
神がそう言われたら、それがとても重要な意味があるとまず気がついたら、見えて来る事がたくさんあります。
しかも、モアデイムが終わりなら、月、星、太陽も消えてなくなると言う事です。物理的な神の創造の世界と、目に見えない世界は全くピッタリ、アイデンテイカル=同一に、マッチして繋がっている。
神の定めの時は、福音そのもの中身を丸ごと、生きて再現、
体験する事であり、預言的側面があり、そしてイエシュアそのものを生きて体験するもの。顔と顔を合わせる究極の近さの会見。
そして、それは、楽しいもの、嬉しいもの、喜びそのもの。
神の定めの日=”モアデイム”を司るために、月、星、太陽が
造られたと最初に書いてある通りに、神の暦=モアデイムは
神に取り、人に取りとても重要なものです。
神の時の中、命のサイクルの中を生きる様に、
人はデザインされ造られている。
命のサイクルの中で、人は神の似姿の人=栄光から栄光へ
変えられて行くプロセス。
第二コリント3:18
続く