本当の自分 神の似姿である人をまず知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人の本当の性質は、神の似姿。

聖書の冒頭から、はっきりとそう書かれている。

”神の似姿に似せて、型どられて、神は人を創造された。”と

書いてあるから。それが人の本来の性質。

 

でも、神の言われる言葉、声以外に聞き入って、

別の目が開かれてしまい、神とは違う考え方、見方を

学んでしまった。

それは、偽の自分、学習してなってしまった偽の自分。

 

たとえ聖書を一度も読んだ事の無い人でも、

何がズレているのかは、本能的に分かるでしょう。

人として、してはいけない事、するべき事など。

腹に書かれたトラーと書いてある通り、神の似姿の人は

神の似姿のDNAで綴られているからです。

人は神の言葉で、造られたからです。

神から直接ルアフ=息=霊を吹き入れられて、生きるものと

なったと書かれている通りだからです。

 

神の似姿の生き様から、ずれた事をした時、人を傷つける事を言った後、やった後、また人から傷つけらる事を言われた時、やられた時、その反応は、後悔、悲しみ、痛みです。

 

本来の姿からずれたものだから、痛み、悲しみを感じる。

そして、自分がずれた事をした時、後悔するでしょう。

ずれている事が分からない場合でも、そのズレに気がついた

時点で必ず痛む。

 

罪人が人の本質であるならば、ズレた事をするのが、

本質通りなのですから、違和感など感じる分けないのです。

罪人である事が、人間の本来の姿なら、ズレた事しても、

痛み、悲しむなんて事しないはずなのです。

 

ズレ、破壊、罪に生きる事が何より楽しい。

それが自分の本質だから。

ピッタリフィット、納得行く生き方であるはずです。

 

ズレの中に生きる事は、自分の本質に沿って、

喜び溢れる事のはずです。

本質がズレ人だから、ずれた事するのが自然で

何より喜び溢れる。それが自分、本当の自分、疑問にも

思わない、悔やまない、痛まない、それが本当の自分だから。

 

でも実際は、様々なズレ=ハター=罪に直面した後、必ずこう思いませんか?

”あんなこと言わなければ良かった。こんな事しなければ

良かった。あんな態度、行動、言動するんじゃなかった。

もっと親切にすればよかった。こうして上げればよかった。”

又は”あんな事されたくなかった。言われたくなかった。”

そして、後悔する、恥じる、痛む、悲しくなる、

修復したくなる。謝りたい。

誰かが自分に対して、ズレた事をしたら、ちゃんとズレを認めてほしい、謝罪してほしい、そしてわだかまりを解消して

欲しいと思う。

 

それは、人の元々の姿、本来の姿、性質が罪人では

ないから、ズレたら悲しい、痛い、謝りたくなるのです。

誰かに対してされた事に関しても、然りなのです。

元の姿に戻りたい。本来の姿に戻りたい。

それが、本当の自分の性質=神の似姿の人の性質だからです。

 

人はどんな状況でも、闇の中で生きれば、本当は苦しむ。

こんな風な生き方したくないと、思うはずなのです。

 

だから、ズレた人で生き続ける事に嫌気がさすのでは

ないのでしょうか?でも、どうしたらそこを抜け出せるのか?

を知らないだけなのです。

ここがキーポイントなのです。

抜け出せる。いや抜け出している=出エジプトしている

今既に購い出されている事実が、聖書のページの面全部に

書いてある。

その事実に気がついてない、新しい人で生きれる事実=完了の

業の事実が、今を本当の自分、取戻された神の似姿の人で生きれると言う福音の事実に、気がついてないだけなのです。

 

人は本来闇の子ではないから、闇の中に留まる事は、苦しいし、

違和感だらけになる。

光の子は、光に向かいたい。光の子らしく歩む時、一番

安心、安全、自分らしい、喜び溢れて来る。

暗闇の状態から抜け出たいと本当は思っている。

暗闇の中で、縛られている事が苦痛だからです。

本当の自分の姿、生き方ではないからです。

 

 

続く