人の本当の性質は、神の似姿。
聖書の冒頭から、はっきりとそう書かれている。
”神の似姿に似せて、型どられて、神は人を創造された。”と
書いてあるから。それが人の本来の性質。
でも、神の言われる言葉、声以外に聞き入って、
別の目が開かれてしまい、神とは違う考え方、見方を
学んでしまった。
それは、偽の自分、学習してなってしまった偽の自分。
たとえ聖書を一度も読んだ事の無い人でも、
何がズレているのかは、本能的に分かるでしょう。
人として、してはいけない事、するべき事など。
腹に書かれたトラーと書いてある通り、神の似姿の人は
神の似姿のDNAで綴られているからです。
人は神の言葉で、造られたからです。
神から直接ルアフ=息=霊を吹き入れられて、生きるものと
なったと書かれている通りだからです。
神の似姿の生き様から、ずれた事をした時、人を傷つける事を言った後、やった後、また人から傷つけらる事を言われた時、やられた時、その反応は、後悔、悲しみ、痛みです。
本来の姿からずれたものだから、痛み、悲しみを感じる。
そして、自分がずれた事をした時、後悔するでしょう。
ずれている事が分からない場合でも、そのズレに気がついた
時点で必ず痛む。
罪人が人の本質であるならば、ズレた事をするのが、
本質通りなのですから、違和感など感じる分けないのです。
罪人である事が、人間の本来の姿なら、ズレた事しても、
痛み、悲しむなんて事しないはずなのです。
ズレ、破壊、罪に生きる事が何より楽しい。
それが自分の本質だから。
ピッタリフィット、納得行く生き方であるはずです。
ズレの中に生きる事は、自分の本質に沿って、
喜び溢れる事のはずです。
本質がズレ人だから、ずれた事するのが自然で
何より喜び溢れる。それが自分、本当の自分、疑問にも
思わない、悔やまない、痛まない、それが本当の自分だから。
でも実際は、様々なズレ=ハター=罪に直面した後、必ずこう思いませんか?
”あんなこと言わなければ良かった。こんな事しなければ
良かった。あんな態度、行動、言動するんじゃなかった。
もっと親切にすればよかった。こうして上げればよかった。”
又は”あんな事されたくなかった。言われたくなかった。”
そして、後悔する、恥じる、痛む、悲しくなる、
修復したくなる。謝りたい。
誰かが自分に対して、ズレた事をしたら、ちゃんとズレを認めてほしい、謝罪してほしい、そしてわだかまりを解消して
欲しいと思う。
それは、人の元々の姿、本来の姿、性質が罪人では
ないから、ズレたら悲しい、痛い、謝りたくなるのです。
誰かに対してされた事に関しても、然りなのです。
元の姿に戻りたい。本来の姿に戻りたい。
それが、本当の自分の性質=神の似姿の人の性質だからです。
人はどんな状況でも、闇の中で生きれば、本当は苦しむ。
こんな風な生き方したくないと、思うはずなのです。
だから、ズレた人で生き続ける事に嫌気がさすのでは
ないのでしょうか?でも、どうしたらそこを抜け出せるのか?
を知らないだけなのです。
ここがキーポイントなのです。
抜け出せる。いや抜け出している=出エジプトしている
今既に購い出されている事実が、聖書のページの面全部に
書いてある。
その事実に気がついてない、新しい人で生きれる事実=完了の
業の事実が、今を本当の自分、取戻された神の似姿の人で生きれると言う福音の事実に、気がついてないだけなのです。
人は本来闇の子ではないから、闇の中に留まる事は、苦しいし、
違和感だらけになる。
光の子は、光に向かいたい。光の子らしく歩む時、一番
安心、安全、自分らしい、喜び溢れて来る。
暗闇の状態から抜け出たいと本当は思っている。
暗闇の中で、縛られている事が苦痛だからです。
本当の自分の姿、生き方ではないからです。
続く