優しさが弱さになる時
byポール・ウォッシャー牧師
兄弟姉妹の皆さん、私達は優しさが捻じ曲げられ、得体の知れないものになってしまった時代に生きています。
世の中は、優しさを単なる礼儀正しさ、寛容さ、誰も怒らせない事と再定義しています。
しかし、神が私達に求める優しさとは、勇気のない弱さでも真実を恐れる事でもありません。
それは、ただ快適さを保つために人々を罪の中に置き去りにする優しさではなく、また神を恐れる以上に拒絶を恐れる優しさでもないのです。
あなた方の多くは、クリスチャンであるという事は、決して悪に立ち向かわず、不快感を与えず、悪の前に毅然と立ち向かわないという事だと欺かれて来ました。
しかし、キリストを見て下さい。
彼は世の規準ではいつも良い人だったのでしょうか。
パリサイ派の人々の機嫌を損ねないようにしていましたか。
いえ、彼は彼等の偽善を暴き、盲目の案内人、白く塗られた墓、地獄の息子達と呼んだのです。マタイ23:27-33節
彼は神殿の腐敗のためにテーブルをひっくり返しました。ヨハネ2章15節
イエス様は人を喜ばせようとはしなかったとあり、父の意思を実行しようとしました。
優しさは、聖書とこの世の両方が強調する美徳でもあります。
しかし、それぞれの文脈における優しさの定義は大きく異なります。
聖書における優しさとは、真理と愛と義への願いに根ざしているのです。
この世的な優しさは、寛容さや争いの回避、人間的な承認によってもたらされる事が多いのです。
この違いを理解する事が重要です。
なぜなら、多くの信者が欺かれ、偽りの優しさを受け入れており、それは結局、信仰を危うくし、人々を神の方へではなく、神から遠ざけている事になるからです。
この世的な優しさとは、人を良い気分にさせる事に主眼を置いています。
それは、説明責任のない受容、矯正のない慰安、真実のない愛を促進するものです。
その最も愛に満ちた行動とは、神の意思に沿うものであるかどうかに関係なく、人々がどのような選択をしても、それを肯定する事であるという信念に基づいています。
この種の優しさは、罪や悔い改めについての難しい会話を避けます。
そのような議論が人々を不快にさせたり、遠ざけたりする事を恐れているのです。
しかしながら、箴言4章12節は警告しています。
一見正しいように見える道ですが、結局は死につながる道となるのです。
罪と向き合おうとしない優しさは、優しさとは言えません。
それはごまかしです。
一方、聖書的な優しさは遥かに深く、意味のあるものです。
それは単に人々を良い気分にさせることではなく、真に良いお方である神ご自身へと導く事なのです。
エペソ4章16節には、愛を持って真実を語るよう私達に呼びかけています。
つまり、優しさとは、罪を前にして沈黙する事ではなく、大胆に、でも愛情を持って人々に義を指し示す事なのです。
イエス様はそのミニストリーを通して、このような優しさを示され、罪人を憐れみました。
しかし、決して彼等の罪を容認した訳ではありませんでした。
姦淫で捕らえられた女に出会った時、彼女を赦しましたが、同時に、「行って、もう罪を犯してはならない」とも命じました。ヨハネ8章11節
彼の優しさは受動的な承認ではなく、能動的な救済でした。
この世的な優しさは、人間に対する恐れによって突き動かされています。
聖書的な優しさは、神を畏れる心によってもたらされます。
もし私達が、人々の永遠の魂よりも一時的な感情を気にかけるなら、それは真の優しさを実践していない事になるのです。
ガラテヤ1章10節は、私達に気付かせてくれます。
もし私がまだ人々を喜ばせようとしているなら、私はキリストに仕える者ではありません。
真の優しさは真理を損ないません。
神が悪と呼ぶものを容認しません。
それは、罪人に悔い改めを求めるのに十分大胆であり、反対を押し切って立ち上がるのに十分強いものなのです。
この世の価値観と一致しながらも、神のことばと矛盾する優しさは、優しさでは全くありません。
それは危険な嘘です。
真理に妥協する事は、今日のクリスチャンが直面する最大の危険の一つです。
真理よりも寛容、信念よりも慰めを重んじる世界では、多くの信者が対立や批判、拒絶を避けるために聖書の原則に対する姿勢を軟化させています。
しかしながら、真理が損なわれると、教会はその力を失います。
信者はその基盤を失い、世界は救い主の御子という唯一の希望を失います。
真実は主観的なものではありません。
それは絶対的なものなのです。
ヨハネ17章17節には、「真理によって彼らを聖めてください。あなたの御言葉は真実です」とあります。
神の御言葉の真理を薄めて社会に受け入れやすくする時、私達は愛を示しているのではなく、霊的反逆を犯しているのです。
神の規準を人間の承認と交換した瞬間、私達はキリストの忠実な証人ではなくなります。
イエス様ご自身もマルコ8章38節で警告しています。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。
真実が危うくなる危険性は、歴史を通しても明らかです。
旧約聖書のイスラエルは、神の命令から何度も背を向け、周囲の国々の道に従いました。
彼等は異国の神々を取り入れ、この世の慣わしに従った結果、神の裁きに直面しました。
同じ危険が今日も存在しています。
教会が罪や悔い改めや聖さについて説教するのを止め、この世の傾向にあわせるようになると、人々を神に近づけるどころか、神から遠ざけてしまう事となるのです。
妥協された真実の最も欺瞞的な面の一つは、聖書の真実が殆んど分からなくなるまで、小さな譲歩や軟化した態度から始まる事です。
今日、多くの教会が性的不道徳、キリストの排他性、地獄の現実など、論争の的になる問題について語る事を避けています。
しかし、福音そのものは、それを拒否する人々にとっては不快なものなのです。
第一コリント1章18節
十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
真実は決して大衆受けするためのものではなく、人々を自由にするためのものでした。ヨハネ8章32節
もし私達が真理に妥協するなら、キリストを裏切る事になります。
もし私達が神を畏れるよりも人間を恐れるなら、私達は既に道を失っています。
ガラテヤ1章10節はこう問いかけます。
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神にでしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうとしているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
「イエス様に従いなさい」という呼びかけは、たとえそれが困難であっても、「しっかりと立ちなさい」という呼びかけなのです。
神の永遠の真理を、人間の自由な承認と引き換えにしてはいけません。
現代人の多くは、イエス様について、いつも穏やかで愛想が良く、世の中が定義するような親切な人という誤ったイメージを持っています。
彼等は、イエス様は争いを避け、決して辛辣な言葉を口にせず、人々と接する時にはいつも穏やかだったと信じています。
しかし、実際のところ、イエス様は人間的な規準からすれば、いつも良い人だった訳ではありません。
彼は正義感が強く、大胆で、罪に立ち向かう事を恐れませんでした。
イエス様の愛は、全ての人の選択を受動的に受け入れるものではなく、人々に悔い改めと真理を呼びかける聖なる愛でした。
イエス様は、叱責を必要とする者を叱責する事を恐れませんでした。
マタイ23章では、パリサイ派の人々の宗教的誇りと欺瞞のゆえに、彼等を白く塗られた墓、偽善者だと呼んでいます。
彼は彼等の偽りの正義を公に暴き、神の裁きが来る事を警告しました。
これは残酷な行為ではなく、愛によるものでした。
なぜなら、偽教師は人々を破滅に導くからです。
そしてイエス様は、その優しさの中で警告し救おうとされ、正しい怒りを示されました。
ヨハネ2章15ー16節で、彼は神殿に入り、人々がそこを市場にして使っているのを見つけました。
これに対して、彼は鞭で彼等を追い払い、テーブルをひっくり返して「父の家を市場にするな」と宣言しました。
これは怒りを押さえ切れなかったのではなく、神の権威を示した瞬間でした。
イエス様は神の神聖さについて情熱的でした。
そして、礼拝のための場所の腐敗を許しませんでした。
イエス様が人々を怒らせるような厳しい真理を語られたのも、この時期でした。
ヨハネ6章で、彼は命のパンであり、彼によってのみ人々は永遠の命を得る事が出来ると教えられました。
信奉者の多くは、「これは難しい教えだ。誰が受け入れられるだろうか」と言って背を向けました。
それでも、イエス様はより受け入れ易くするために説教を変える事はしませんでした。
彼は群衆を喜ばせるために言葉を和らげたりはしませんでした。
その代わり、彼等を帰らせました。
彼は人気ではなく、真実の立場に立っていたからです。
イエス様は憐れみ深く、愛に満ちておられました。
しかし、その愛は弱くも妥協的でもなかったのです。
彼は罪人に悔い改めを求め、偽善を叱責し、たとえそれが不人気であったとしても、神の真理を堅く守りました。
キリストに従う者として、私達はキリストの人格を反映するよう求められているのです。
つまり、私達は愛と忍耐を持たなければならないのと、また、真理のために果敢に立ち向かわなければならないのです。
キリストのようであるという事は、この世の規準による良い人であるという意味ではありません。
それは、たとえ全てを犠牲にしても神に忠実である事を意味します。
真の愛とは、単なる承認受動的な肯定ではありません。
その中には矯正、指導、そして必要な場合には叱責も含まれるのです。
この世の愛とは、人の選択を疑うことなくありのままを受け入れる事だと教えています。
しかしながら、聖書的な愛は遥かに深く、変革をもたらすものです。
人々を罪の中に置き去りにせず、悔い改めと義を呼びかけます。
誰かを愛するとは、その人の永遠の運命を思いやる事なのです。
神の民に対する愛には、常に矯正が含まれています。
へブル12章6節には、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあります。
調度、愛情深い親が子供のために矯正するように、神は自分の子供達を破滅から守るために矯正します。
もし神が罪を無視し、人々が結果なしに反抗を続けるのを許すとしたら、それは愛ではありません。
それは放棄です。
真の愛は、たとえ矯正が困難で痛みを伴うものであっても介入します。
イエス様はミニストリーを通して、この原則を示されました。
彼は罪人に対して深い憐れみを示す一方で、彼等の罪を決して免除しませんでした。
姦通で捕らえられた女を赦された時、単に「行って、好きなように生きなさい」とは言われず、かえって、「今すぐ行って、罪の生活から離れなさい」と命じました。ヨハネ8章11節
誰かを罪の中に放置する事は、一つの罪であり、愛でもなく、それは怠慢です。
使徒パウロもまた、矯正と愛の重要性を強調しています。
第二テモテ4章2節では、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と教えています。
愛とは、難しい会話を避ける事ではありません。
私達に出来る最も愛情深い事は、誰かにその行動の結果について警告する事だったりします。
そして、彼等を神の御言葉の真理に立ち返らせるのです。
対照的に、この世的な愛は拒絶されることを恐れて矯正を避けます。
神の真理よりも、人間の承認を優先するのです。
しかし、箴言27章6節は私達に気付かせてくれます。
憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛するものが傷つけるほうが真実である。
真の友人、真の信仰者、真の牧者は、たとえそれが困難であっても真実を語ります。
矯正を含む愛は、神の心を反映する愛です。
非難はしませんが、罪を悟らせます。
拒絶はしませんが、精錬します。
本当に人を愛するなら、その罪を無視する事はありません。
私達は、彼等をそこから解放して下さる救い主の下へと導くのです。
人間に対する恐れと神に対する恐れは、私たちの生き方、価値観、そして誰を喜ばせようとするかを形作る、二つの相対する力です。
人間の恐れは、承認欲求と拒絶や迫害の回避に根ざしています。
その結果、人々は真実を語るべき時に妥協し、沈黙を守る事になるのです。
そして、神への服従よりも慰めを求めるのです。
対照的に、神を恐れるとは、神の神聖さ、力そして権威に対する深い畏敬の念です。
それは従順と勇気、そして何よりも主を敬う生き方につながります。
箴言29章25節は私達に警告します。
人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。
人間を恐れると、彼等の意見の奴隷になってしまいます。
多くの人は正義のために立ち上がる事をためらいます。
批判されたり、拒絶されたり、不寛容のレッテルを貼られたりする事を恐れているからです。
この恐れは、しばしば妥協につながります。
真実よりも沈黙を、従順よりも承認を、忠実さよりも人気を選びます。
しかし、イエス様はマタイ10章28節でそれを明言しています。
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
しかし、神を畏れる事は、知恵と力と自由をもたらします。
箴言9章10節は、「主を畏れる事は知恵の初めである」と始まっています。
神を畏れるとは、神の至高の権威を認める事であり、いつか裁きにおいて神の前に立つ事を深く自覚して生きる事なのです。
神を畏れる者は、人の意見に簡単に左右される事はありません。
なぜなら、人間の承認は一時的なものですが、神の裁きは永遠である事を知っているからです。
イエス様ご自身、人を恐れるのではなく、神を畏れる事を示されました。
彼は群衆や宗教指導者達、或いは弟子達の期待に合わせて説教を変える事はありませんでした。
拒絶され、迫害を受け、最終的には十字架につけられたとしても、彼は大胆に真理を語りました。
同様に、聖霊を受けた使徒達は、強大な権力者からの脅しにも関わらず、恐れる事なく福音を宣べ伝えました。
ペテロとヨハネがイエス様について宣教するのを止めるよう命じられた時、彼等は大胆にもこう宣言しました。
使徒5章29節
人に従うより、神に従うべきです。
人間への恐れに支配された人生は妥協につながりますが、神への畏れに根ざした人生は、忠実さ、大胆さ、そして永遠の報いをもたらします。
真の自由は人を喜ばせる事にあるのではなく、しかし、永遠をその手中に握っておられる方を讃えるために生きるのです。
真の優しさとは、単なる礼儀やお世辞、争いの回避ではありません。
それは真に大胆であり、義に揺るぎなく、神と他者への深い愛に根ざしています。
今日の世界では、優しさはしばしば、あらゆる行動、生活様式を疑うことなく受け入れる寛容さと再定義されます。
しかし、聖書的な優しさは、罪を無視したり、欺瞞に直面して沈黙したりするものではありません。
たとえそれが不快であったとしても、真実を語ります。
なぜなら、真実の優しさは、現世だけでなく、永遠に渡って他者にとって何が最善かを追求するからです。
エペソ4章15節は、真理と愛を語るよう指示しています。
つまり、これは真理と愛は相反するものではないという事を意味します。
それらは、一緒でなければなりません。
真実のない愛は、空しい感情です。
また、愛なき真実は、辛辣で無慈悲なものになりかねません。
しかしながら、私達が真に人を大切にする時、たとえそれが彼等を挑発し、有罪にするものであっても、私達は彼等に真実を伝えます。
もし、医者が患者の感情を傷つけたくないという理由で、死に至る病気である事を告げなかったとしたら、それは優しさではなく残酷さです。
同様に、罪とその結果について人々に警告する事を拒絶する事は、優しさではありません。
イエス様ご自身、真に大胆な優しさの完璧な模範でした。
彼は罪人に憐れみを示しましたが、姦淫で捕らえられた女に語りかける時、決して罪を容赦しませんでした。
彼は彼女を非難しませんでしたが、彼女の行動を肯定もしませんでした。
その代わりに、「今すぐ行って、罪の生活から離れなさい」と言われました。
イエス様の優しさが彼女を悔い改めへと導いたのであって、反抗し続けたわけではありません。
同じように、イエス様がパリサイ派の人々に立ち向かった時、彼等の賛同を得るために言葉を和らげるような事はありませんでした。
彼は大胆にも、彼等を盲目の案内人、白く塗られた墓と呼んだのです。マタイ23章27-28節
なぜなら、イエス様は偽りの宗教が人々を破滅に導く事を知っていたからです。
彼の優しさは、人々を一時的に良い気分にさせる事ではなく、救いに導く事でした。