この本の全てが素晴らしかった。
淡交社、いい本出してくれてます。山川宗玄老師に良くぞこれを書いていただいたものです。
こちらの本を無門関を広めた興国寺(非売品を売っていただいた)手に入れ、素晴らしい解釈にうっとり。
アシュタンガヨガをフィットネス的なものじゃない形で取り組みたいと思っている方には、納得が多いのではないかと思います。
私はこちらの本を読み、人はその場所に生まれたくて生まれる、という意味を真に理解し、腑に落ちた本である。
私は地獄に生まれ落ち、地獄から這い上がるつもりで生きてましたが、そうではなく自ら好んで"生まれた時から禅寺スタート"を選んで来たと実感。
私は幼少期から、いろんな人に囲まれて生きてきた。
その経験からわかった事は、真の地獄とは、道徳がなく、怠け者である自分に葛藤を持つこともできない事である。
つまり葛藤、怒り、嫉妬、執着で苦しいと言う事を自覚でき、また誰も優しくしてくれず、甘やかしを一切与えてもらえないのは、それはすでに地獄ではない、禅寺です。
怠惰による甘えと、不道徳な自分を適当に肯定してくれる逃げる場所がある限り、そっちが地獄なのだ。
理不尽な厳しさは禅寺。
一貫して厳しいのは禅寺。
老師は人格者ではないことが多いのが無門関の面白さ。
みなきつい修行に日々努めてるので、よく働き、不道徳をする暇がない。しかしきつい修行に耐えれる我の強さと、そのストレスによる攻撃性の老師の元で学ぶ。
理不尽であっても、やはり一貫した道はそこにある。
門のないところを行く無門関。
私のお気に入りポイントは、無門関は認証欲をぶちのめして刻んでボロボロにします。
認めてくれないと拗ねたり、攻撃的になる人、または簡単に認めてご機嫌取ってくれる所で生きていたい人が増えていることへの警告も書かれている。
しかしそうした逃げ続けて今世生きれるならそれでいいんじゃないかと思う。
また厳しい事が答えでもない。
自己肯定感ワークブームで救われる人もいるのだからいいんです。
もし逃げる場所を自ら断ち切る覚悟が出来たら、禅が始まる。無自覚に無意識に望んでもそれは始める。
そして理不尽祭りが始まる。
その時、老師のおすすめ言葉がこれ。
嫌なことがあればあるほど、"めでたし!"と声に出して務めていくらしい(本当にそんな話が出てきます)
本当の苦しみは、外に仏を求める"認証欲"
自分の中に仏を見つける作業は、工夫あるのみ。
日々退屈だ、といって怠惰を繰り返すのは、外に仏を求めて彷徨い歩くことらしい。
日々工夫してると毎日新鮮。退屈などない。
練習を退屈だと思わずに済んだのは、工夫を楽しめたからだ。
同じ事を繰り返すことが退屈だと思わない工夫を通じて、ゆっくり世の中が自分に与える理不尽への扱いが上手になって、生きやすくなり、結果真の自由を手に入れるとは?を考えられるようになったんだと思う。
私のご機嫌を一切とらずに、禅寺レベルの理不尽も含めて厳しくしてくれた親と祖母に感謝。
周りに左右されるなんて真っ平ごめんだ。
周りに期待して期待通りのことが、血を吐く努力もしないで手に入ってたら、我の強すぎる私はとんでもないモンスターになってただろう。
(ボケっと)モンスターこそ禅寺へGO。
本気のアシュタンガヨガのシャラも完全な禅寺。理不尽をどのように立ち振る舞うか?
(フィットネスとしてやるならサービスとして学びましょう。)
悟りに向かうためにやるなら、理不尽さをお金と時間をかけて買いに行けば良し。
そして優しくされたい時も、時間とお金は使うべし。
また地獄とは、タダでなんでも欲しがる事。
そしてそれがかなりヤバいとわからず、望んだ事を貰えないと文句を言い続ける事なのだ。
門のない道を行くなら、一番はじめに覚悟を持つ事。
ちゃんと覚悟だけ持ってこの世に来れた自分を褒めてやりたい。
皆それぞれ必ず一つくらいは持って生まれてきてるのです。
西洋占星術では牡羊座は1個、魚座は12個だそうです。シンプルに行くには1つで十分。私の性格でいくつもあったら、絶対に悪知恵で器用に搾取しては逃げる、人を突き落とす、おそらく仕事はペテン師だったと思うから。
無門関、一緒に学んでみませんか?
郷古美令雪先生が分かりやすく無門関を説いてくれます。
10月30日開催決定。
@mireillerunes