「天才バカボン」は幸せな家庭だったのか?作者の意図した「痛烈な社会風刺」とは? | 知りたがりな日本人のブログ@インドネシア

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昭和の子供は、学校から帰ると
夕ご飯前までずっとテレビは
つけっぱなしにしておくのが
当たり前だった。

ロボットもの、チームもの、
異次元もの、色んな正義の味方、
時代劇を挟んで続く時間帯。

それはもう、物心ついた時から
身体に染みついていた習慣だった。

いつものテレビまんががない
土曜や日曜の夕方は
何をしたらいいか分からないほどだった。

この頃はまだ「アニメ」ではない。
「テレビまんが」という。

そんな時間帯にあって、
「天才バカボン」は
特別に観たい番組でもなかった。
時間つなぎに観ていた程度だった。

でもなぜか思いかえしてみれば、
他のどのヒーローものよりも
いろんな意味で
後々まで根強い影響力を放っていたのは、
実はこのてれびまんが「天才バカボン」
だったのではないかと思っている。

大人はそれをナンセンスとかギャグとか
と言う理屈で片付けるが、
子供にはそんな言葉は通用しない。

他のヒーローものと同じように
バカボンのパパだって、子供の目には
ヒーローだった。
 

学校や社会のルール、他人の目を気にして、
必死に周囲に自分を合わせることを学ぶ
子供時代。


ロボットや超能力を持つヒーローなら、
「もし自分があの能力を持っていたら」
「科学者の子供に生まれていたら」
「自分だったらこう行動する」というように、
主人公そのものに自分を投影させることができるもの。


でも、バカボンのパパの場合は
自分を投影させることが出来るものではない。

「自分だったらこう行動する」という
参加型の妄想ではなく、その反対に
「自分にはあんなに面白いことは思いつくことができない。
突飛な行動は絶対真似できない」という
距離を置いた脱落型の妄想を掻き立てる。


バカボンパパの世界は、
いつも賑やかで楽しそうに見えるのに比べて
自分はいつもひとりだし、
一緒に行動してくれるバカボンもいない。

大人になると忘れてしまいがちだけれど、
子供にはまんがの世界と現実には、
境界なく繋がっているもの
 

「嘘や言い訳がいけないことだ」
というのもじつは、大人の理屈にすぎない。


パパがどんなに嘘をついて屁理屈をこねても、
困らせるようなことをしても
決して徹底的に責めたり、愛想をつかしたり
することのないバカボンのママ。

それは、子供の目には
「パパの行動は間違っていないんだ」と映る。

さらには
「パパみたいに自分も面白い冗談が言えたり、
屁理屈で人をあっと言わせることが出来たら
愛される人間になれるかもしれない...」
そこまで思いつめることだってある。

事実、のちの80年代のアニメの世界では、
こういう、都合よく無条件に愛される
「バカボンスタイル」の物語が
量産されるようになって、
根強く支持され続けている。


でも現実の世界はそんなに甘くない。
人は嘘をつかれれば傷つくし
屁理屈ばかりで、はぐらかされるなら
人はもう話しかけてくれなくなる。


そこが物語なのだけれど、
登場人物が去って行ってしまうと番組が、
終わってしまうので子供は大人にならない、
大人も歳をとらない。
「成長しない世界」が維持される。

生身の人間と深く接する機会が
劇的に少ない現在では、
うっかりすると現実の人間関係の隙間を
その「都合よく成長しない架空のキャラクター」
が占めてしまうということもある。

バカボン一家のような人間関係を、
無意識のうちに理想の家族像として
抱いているのなら、手放してしまった方がいい。

別にバカボンを否定しようとか、そういう意味じゃない。
見るもの聞くものには必ず影響されるのが人間だから、
自分が何から影響を受けているのか、
知っておくことは意味があると思っている。

ところが、この話はここで終わらない。
さらに奥がある。

私自身、さらにまた歳を重ねて、最近ようやく
気が付いたことがある。

それは、バカボンパパ一家の
キャラクター設定それぞれに、
もっと深い意味があったということだ。

気づいたきっかけは、
天才バカボンの作者の赤塚不二夫の作風は
満州で幼少期を過ごした経験を反映していると
Wikiペディアに書いてあるのを読んだこと。
 

当時、日本政府は、民族の垣根を
越えて協力して平和で豊かな理想郷にする
という建前で満州に進出していた。
 

しかし憲兵の息子としてその地に暮らした
少年がみたものは、
警察、軍、経済も政治、全てにおいて

日本人を頂点とした冷酷な格差社会という「現実」。

現地の人達を祖先代々の土地から
追い出し、過酷な労働を強いた日本政府、


そして、そんな現地人と当局との間に挟まって、
苦悩していたのが、赤塚不二夫の父親だった。
という。

また、別の談話によると、赤塚は、
当時大流行
していたスポコンものに対する、
きまりきった美談に反発する気持ちから、
バカボンパパが生れたといっている。

 

建前ばかりの美談への反発、きれいごとでは
済まない不条理な世界、そして
格差という社会の歪み。


これらを重ね合わせたとき、
あまりに
当てはまり過ぎてゾッとする。
ちょっと過激な解釈に思いあたった。

あの家族は、実は「日本社会の矛盾」
そのものの縮図だったのではないか?
それはこんな構造だ。

バカボンのママ =「優秀な官僚」
どれほどトップが無茶苦茶でも、文句も言わず、
当たり前のように実務をこなし、
国家の形を維持し続ける存在。

 

バカボンのパパ =「政治家(リーダー)」
 嘘と屁理屈、セコい誤魔化し、
根拠のないステータスを誇り、
他人の手柄を自分のもののように利用する存在。

バカボン =「一般大衆」 パパのずるい嘘を真っ直ぐに信じ込み、
純粋ゆえに都合よくコントロールされていく存在。

ハジメちゃん =「日本の優れた技術分野」 生まれた時から天才的で、
親がなにをしなくてもよくできる子。
それは、世界から賞賛される成果を出すその頃の
日本が誇る工業技術のようだ。
 

筋の通らない政策やリーダーの暴走があっても、
優秀な実務派(ママ)のおかげで
国としての形は保たれ、大衆(バカボン)も
技術者たち(ハジメちゃん)も黙ってついていく。

バカボン一家を「理想の家族」と称賛する物語が
発するメッセージとは、じつはこの
歪な社会の肯定なのでは?

 

赤塚不二夫がこれを意図的に描いていたとしたら
なんという先見の明だろう。

というよりも、時代が一回りして、現実がようやく
彼の描いていたディストピアに追いついてきた
と言った方がいいのかもしれない。

何事もなかった平和な時代には、ただの
「ギャグ」として消費されていたにすぎない
漫画のキャラクターなのに、
昨今の不安定な社会状況を思うと、
異様に、生々しく見えてくる。

特に、おまわりさんが気分で拳銃を乱射するというのは
決して笑いごとではない。

海外のニュースをみてみれば、
腐敗した政府が批判を抑え込むために
或いは、既得権益を守るために、
警官が剥き出しの暴力装置として利用される光景は、

よくあることだ。

政府という機能が麻痺したデストピアでは
武器をもってる警官や軍が
新たな支配者として君臨する。


レレレのおじさんも、じつは、リアルな存在だ。

通る度に、必ず声をかけてくる存在というのは
それはまるで、生活のためにクビになるわけにはいかない、
弱い立場の地元採用の警備員のようだ。

権威も武器もなく、ただ見張る。だから
いざ事件が起きて「犯人はどっちへいった?」
と詰め寄られると、混乱してしまって、
肝心な時(裁判などで)役にたたない。
 

そしてほぼ犬でありながら、尻尾と頭がウナギというだけで
常に追いかけ回されるウナギ犬。
少しでも、他者と違う「価値」や「希少性」を持っていることは、
たちまち剥き出しの欲望の対象になり、
平穏に出歩くこともできなくなる。

これらは全て、赤塚不二夫が幼少期にみたもの
感じた世界の歪みから生まれた世界。
だから時代を先取りしているように感じられる。

それじゃあ、なぜ、ママや息子たちが
黙ってついてくる都合よい存在として
描かれているのか?

それは、実際の彼の父親がそういう昭和らしい
父親だったからではないのだろうか。
斬新なようで、古い面もある。

そういう意味で、やはり
バカボン一家を理想の家族像とする見方はやめた方がいい。
事実、平成の時代には「家族の絆」のような
テーマでリメイクされていたりもしたが、
私はどうしてもそこに違和感を覚えてしまう。

 

歪みに「気づけよ」というメッセージが
家族はいいものという美談にすり替わってる
というところが実に痛烈。

でもじつは、天才バカボンは
あまりに理不尽なニュースばかりでムカムカする
ことの多い、今の時代だからこそ、
見直されるべき作品なのではないかと思う。

「まるでバカボンの世界じゃん」
と毒づきながら笑い飛ばす。
清涼剤として味わえる時代が来ている。