紀元前167年になると、トーラーの実践者には死刑が宣告され、エルサレムの神殿にはゼウス像が奉仕され、祭壇には豚肉が捧げられるということにまで至りました。くわえて、国王を神として崇めることを求められました。唯一絶対神を信奉するユダヤの人々にとっては、すべてが全く受け入れられない事態でした。セレウコス朝の政策は、ユダヤの人々の宗教的アイデンティティと同時に、民族的アイデンティティも根本的に破壊するものだったからです。

 

ここにきて、ユダヤ人による反乱が始まります。最初に反乱ののろしを上げたのは、ユダヤの祭司の家系であるハスモン家を中心とした人々です。反乱軍は、政府軍を次々に打ち破り、紀元前164年、ついに、エルサレムに入城を果たします。入城を果たしたユダヤの人々は、神殿を清め、祭壇を再興して、神に感謝を捧げました。この出来事を記念して、ユダヤ教徒の間で現在でも行われている祭りが「ハヌカの祭り」です。

 

紀元前152年に、セレウコス朝がハスモン家のヨタナンをエルサレム神殿の大祭司に任命します。これによって、ハスモン家がユダヤ民族の神政共同体の首長となり、セレウコス朝と和解することになります。しかしそれは、ユダヤ人社会が、セレウコス朝の提言を受け入れ、その配下に組み込まれることを意味するものでもありました。

 

ヨタナンの後を継いだシモンは、セレウコス朝への朝貢を良しとせずに、弱体化しつつあったセレウコス朝からの独立を目指します。そして、紀元前142年、シモンは、ユダヤ社会の有力者たちによって大祭司に任命されるとともに、国の支配者としても承認されることになります。これによって、ハスモン家を首長としたユダヤの独立が認められることになりました。ユダヤ人社会にハスモン王朝の成立したのです。

 

この後、ハスモン王朝は性格を変えていくことになります。つまり、ハスモン家を中心とした運動は、もともとはギリシャ化に反対するための運動であったにもかかわらず、ハスモン王朝は次第にギリシャ主義的な専制王朝へと変わっていくのです。そしてそれは、ユダヤ教のしきたりを忠実に守ろうとする人々の反感を招くことになります。

 

ハスモン王朝の統治に最も強く反発したユダヤ教のグループがファリサイ派の人々です。ファリサイ派の人々は、一般信徒を中心とした人々です。彼らは、祭司や貴族階級による支配を嫌い、口伝律法を重視しました。祭司に頼ることなく、信者一人一人が宗教的義務を果たすことを主張しました。ファリサイ派は、祭司を廃止して、ユダヤ教の教義を信者自身が実践するという、現在のユダヤ教の在り方を目指した最初のグループといえるのかもしれません。